元明天皇 (Empress Genmei)
元明天皇(げんめいてんのう、皇極天皇7年(661年) - 養老5年12月7日 (旧暦)(721年12月29日))は、奈良時代初代天皇で第43代の天皇で女帝(在位:慶雲4年7月17日 (旧暦)(707年8月18日) - 和銅8年9月2日 (旧暦)(715年10月3日))。
名は阿陪皇女(あへのひめみこ)。
阿閇皇女とも。
天智天皇の第四皇女。
鸕野讚良皇女(持統天皇)は父方の異母姉妹、母方の従姉妹で、夫の母であるため姑にもあたる。
母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘(めいのいらつめ)。
天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である。
和風諡号は「日本根子天津御代豊國成姫天皇」(やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめのすめらみこと)である。
和銅発見の地、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する「和銅の聖神社」には、元明天皇御下賜の和銅製の蜈蚣(むかで)雌雄一対が御神宝として納められている。
また、養老6年11月13日(722年12月25日)に元明天皇を元明金尊(げんみょうかがねのみこと)として合祀している。
血縁
父:天智天皇
母:蘇我姪娘(父:蘇我倉山田石川麻呂)
同母姉:御名部皇女
夫:草壁皇子
子:氷高皇女(元正天皇)、珂瑠皇子(文武天皇)、吉備内親王
孫:首皇子(聖武天皇)、広成皇子、広世皇子、膳夫王、葛木王、鉤取王、桑田王
概要
675年に十市皇女と共に伊勢神宮に参拝。
679年頃に甥である草壁皇子と結婚、草壁皇子は即位する事無く早世した。
姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)が即位した。
その後、息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位した。
707年4月には夫、草壁皇子の命日(旧暦4月13日)が国忌に入った。
しかしその直後息子天皇が病に倒れ、譲位を固辞していた所崩御してしまった。
残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。
708年に武蔵国秩父(黒谷)より和銅が献じられたので、和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。
この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった、その為実務に長けていた藤原不比等を重用した。
710年、藤原京より平城京に遷都した。
左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。
712年正月には諸国の国司に荷役につく民を気遣う旨の詔をだした。
同年にはまた古事記が献上され、713年には風土記が編纂された。
715年には郷里制が実施された。
同年9月2日 (旧暦)(715年10月3日)、自身の老いと首皇子がまだ若いと言う理由で娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に譲位した。
721年5月に発病し、婿である長屋王と藤原房前に後事を託し、遺詔として葬送の簡素化を命じた後、12月7日 (旧暦)に崩御した。
元明天皇に関する歌
万葉集に以下の歌が残されている。
勢の山を越ゆる時に、阿閉皇女の作らす歌
これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山
越勢能山時阿閇皇女御作歌
此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山 巻1-35
和銅元年戊申 天皇の御製
大夫(ますらを)の鞆の音すなり物部の 大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも
大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母 巻1-76
陵墓
奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)である。
山陵。
円丘。
元明天皇は養老5年12月7日(721年12月29日)、崩御した。
これにさきだって詔して「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」。
すなわち13日(722年1月4日)、喪儀を用いず椎山陵に葬った。
陵号は「続日本紀」奉葬の条には「椎山陵」、天平勝宝4年閏3月の条には「直山陵」、遺詔に「蔵宝山雍良岑」とある。
延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した。
中世、山陵の所在を逸した。
「前王廟陵記」は那富士墓の位置を擬し、「大和志」は大奈辺古墳を擬した。
幕末の修陵の際に現陵に治定され、修補を加えた。
慶応元年3月16日(1865年4月11日)、広橋右衛門督を遣わして竣工の状況を視し、奉幣した。
遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちた。
これを発掘し、奈良春日社に安置した。
それを明和年間、藤貞幹(藤原貞幹、誤伝により藤井貞幹)が見て「東大寺要録」を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。
文久年間の修陵の際にこれを陵側に移した。
明治29年藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を作り、かたわらに建てた。