光厳天皇 (Emperor Kogon)

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年/貞治3年7月7日(1364年8月5日)、在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年/正慶2年5月25日(1333年7月7日))は、南北朝時代の北朝第1代天皇とされている。
諱を量仁(かずひと)という。

明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇からは除外されてしまっている(それまでは一貫して現皇統につながる北朝が正統とされていた)。

系譜

持明院統の後伏見天皇の第三皇子。
母は、左大臣西園寺公衡(きんひら)の娘、女御寧子(西園寺寧子)。
叔父にあたる花園天皇の猶子となった。

略歴

1326年、大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子になる。
当時、鎌倉幕府の裁定によって、持明院統と大覚寺統は10年ごとに天皇を交代させる決まりになっていたが、大覚寺統の後二条天皇が在位7年での急死後に例外的に後二条(大覚寺統)→花園(持明院統)→後醍醐(大覚寺統)→邦良親王(大覚寺統・後二条嫡男)→量仁親王(持明院統)という例外的な皇位継承順位が定められていた。
ところがこの年に邦良親王が病死したため、急遽量仁親王の繰り上げ立太子が実現したのである。
だが、当時皇位にあった後醍醐天皇は幕府の裁定そのものの無効を主張して譲位には応じなかった。

1331年、後醍醐天皇による倒幕のもくろみが明らかになると、後醍醐天皇は急遽挙兵するが幕府に捕らえられ、9月20日に光厳天皇が即位する。
皇太子には邦良親王の嫡男木寺宮康仁親王が立てられて、両統迭立原則は維持される事となった。
翌年、後醍醐天皇は隠岐国に流されるが退位を拒否し、光厳天皇と並立したため、広義にはこの時代より南北朝時代と呼ぶ。

1333年、足利尊氏の軍が京都の六波羅探題を襲撃し、探題北条仲時、北条時益とともに東国に逃れようとしたが近江国番場宿で捕らえられ、5月25日に廃位されている。
だが、天皇自身は退位を拒否していた。
後醍醐側の光厳天皇への処遇は「朕の皇太子の地位を退き、天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇とする」とされ即位の事実を否定されてしまった(したがって論理的には小一条院同様皇太子をやめて上皇の尊号を受けたという例になる)。

しかし、帰京した後醍醐天皇による建武の新政が失敗し、足利尊氏が離反すると上皇は尊氏に新田義貞追討の院宣を下す。
1336年弟の光明天皇が持明院統の天皇として即位した。
後醍醐天皇は大和国吉野に吉野朝廷を開き、自己の皇位の正統性を主張して北朝に対抗した。
光厳上皇は、光明天皇、崇光天皇の二代に渡って院政を行ったが、足利氏の内紛である観応の擾乱のおり、南朝の後村上天皇の軍が1352年京都を奪回した際に光明、崇光両上皇とともに南朝に捕らえられ、京都を追われ撤退する南朝軍によって山城国男山(京都府八幡市)、さらに南朝の当時の本拠であった大和賀名生(奈良県五條市)に連れ去られてしまう。
以後、十年余り南朝方に軟禁される。

晩年は出家して禅宗に帰依し、常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)に住したと言われている。
歌道に優れ、後期京極派の重要な一員である。
花園院の指導のもと『風雅和歌集』を親撰し、『光厳院御集』も伝存する。

貞治3年(北朝)7月7日、崩御。

在位中の元号

元弘 (1331年9月20日) - 1332年4月28日

正慶 1332年4月28日 - (1333年5月25日)

陵墓・霊廟

京都府京都市右京区京北井戸町の山国陵(やまくにのみささぎ)に葬られている。

また、大阪府河内長野市の金剛寺にも分骨所がある。

登場作品

森真沙子「廃帝」(角川春樹事務所、2004/03)

朝松健『邪曲回廊』-異形コレクション第33巻【オバケヤシキ】(光文社、2005年)
既に故人ではあるが、彼の遺品であった拄杖が恐ろしい空間を生み出し、小坊主時代の一休宗純が嵌ってしまう。

[English Translation]