光明天皇 (Emperor Komyo)

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年/康暦2年6月24日(1380年7月26日)) 在位:延元元年/建武3年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年/貞和4年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の北朝第2代天皇である。
諱を豊仁(ゆたひと)という。

明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇からは除外されてしまっている(それまでは一貫して現皇統につながる北朝が正統とされていた)。

系譜

後伏見天皇の第2皇子。
母は、西園寺公衡の娘西園寺寧子。

略歴

後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武3年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。
後醍醐天皇の代わりに8月15日に豊仁が三種の神器の無い状況で光厳天皇の院宣により即位して光明天皇となり、北朝が成立する。
後醍醐天皇は12月21日に吉野に逃れて南朝を設立して南北朝が成立する。

三種の神器がない状況での即位は後鳥羽天皇が後白河天皇の院宣により即位した先例に従ったものであり、この時代は三種の神器が皇位継承の絶対条件ではなかったのである。

兄の光厳上皇による院政が行われており、1348年10月27日に光厳上皇の第1皇子崇光天皇に譲位した。
上皇にあった後は、1352年に足利氏の内紛である観応の擾乱に乗じて後村上天皇の軍が京都の足利義詮を追い都を奪回した際に、光厳上皇と共々南朝に捕らえらる。
南朝による正平一統が行われると以後は南朝方により大和国賀名生(奈良県五條市)に軟禁される。

1355年に京へ戻り、以後は落髪して仏道に入ったとされる。
1380年6月24日、崩御した。

在位中の元号

建武 (1336年8月15日) - 1338年8月28日

暦応 1338年8月28日 - 1342年4月27日

康永 1342年4月27日 - 1345年10月21日

貞和 1345年10月21日 - (1348年10月27日)

陵墓・霊廟

京都市伏見区桃山町秦長老の大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)に葬られた。

[English Translation]