北白川宮 (Kitashirakawanomiya)

北白川宮(きたしらかわのみや)は、明治初期、伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王が創設した宮家。

北白川宮智成親王

初代智成親王は、1856年(安政3年)に誕生。
慶応2年に親王宣下。
聖護院に入る。
出家し信仁入道親王と称した。
明治維新によって還俗。
照高院宮と名乗ったが、その後、北白川宮に改称した。
1872年(明治5年)、17歳で薨去。
兄の能久(よしひさ)親王を後嗣とするよう遺言した。

北白川宮能久親王

2代能久親王は伏見宮邦家親王の第9王子で、智成親王の兄宮に当たる。
1848年(弘化4年)に誕生。
1858年(安政5年)に仁孝天皇の猶子として11歳で親王宣下。
上野の輪王寺に入寺得度し、公現入道親王と名乗る。
戊辰戦争の時、幕府側に附く。
彰義隊に担がれて上野戦争に巻き込まれ、その後 奥羽列藩同盟に擁立され仙台に赴いた(東武皇帝として即位したとする説あり)。
維新後、蟄居・伏見宮預りとなる。

1869年(明治2年)に許されて伏見宮に復帰する。
1870年(明治3年)にドイツに留学。
1872年に北白川宮を相続し、1877年(明治10年)に帰国した。
帰国後は大日本帝国陸軍に勤務。
陸軍中将にまで進む。
日清戦争では近衛師団長として出征。
戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、1895年(明治28年)、現地で戦病死した。
享年49。

北白川宮成久王

3代成久王は、能久親王の第3王子。
1887年(明治20年)に誕生。
1895年、父宮の薨去により宮家を相続。
1909年(明治42年)に明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚した。
陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。
陸軍砲兵大佐となる。
しかし、1923年(大正12年)パリ郊外で自動車事故のため37歳で薨去。
同乗していた妃房子内親王と朝香宮鳩彦王も重傷を負った。

北白川宮永久王

4代永久王は、成久王の第1王子。
1910年(明治43年)誕生。
1923年、成久王薨去により、宮家を相続した。
陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、父宮の遺志を砲兵畑を歩み陸軍砲兵少佐となる。
1935年(昭和10年)、尾張徳川家の流れを汲む男爵 徳川義恕(よしくみ)の娘・北白川祥子と結婚。
1940年(昭和15年)、日華事変に出征、蒙疆方面で演習中、軍用機の不時着事故により戦死。
31歳だった。

妃北白川祥子は、東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)を卒業。
永久王との間に道久王と肇子女王を儲ける。
1969年(昭和44年)女官長に就任し、平成改元後は、皇太后宮女官長として皇太后良子(香淳皇后)に長く仕えた。
兄の徳川義寛は侍従長。
次兄・津軽義孝は常陸宮妃華子の父に当たる。
祥子の弟徳川義恭の親友だった三島由紀夫は17歳の頃、祥子に片思いしていた経験に基づいて短篇小説『玉刻春』を書き、『輔仁会雑誌』168号に発表したことがある。
祥子はまた、三島晩年の長篇小説『春の雪』でも伯爵令嬢綾倉聰子のモデルとなった。

北白川宮道久王

5代道久王は、永久王の第1王子。
1937年(昭和12年)に誕生。
1947年(昭和22年)、皇籍離脱し、北白川道久を名乗る。
学習院大学卒業後、島津忠承の娘・慶子と結婚。
3女を儲ける。
前伊勢神宮大宮司。
2005年(平成17年)11月15日、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の結婚式において、斎主を務めた。

能久親王、成久王、永久王と3代続けて不幸が続いたことから、北白川宮家は「悲劇の宮家」と言われた。
しかし、一方で戦後の混乱の中、堅実に家柄を守り抜いた。

また、道久王の妹にあたる肇子女王は明仁(当時)の、道久王の長女も徳仁親王の妃候補に名が上がった。

[English Translation]