壺切御剣 (Tsubokiri no Mitsurugi (the sword Tsubokiri))

壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)とは、日本において代々の皇太子(東宮)に受け継がれた宝剣である。
壺切の太刀ともいう。
現在は皇太子徳仁親王が保持している。

概要
元は関白藤原基経が、養父藤原良房から伝えられたものであった。
基経がこれを宇多天皇に献上し、天皇が皇太子である敦仁親王(のちの醍醐天皇)に授けた。

以後、壺切は東宮のシンボルとして現代まで代々受け継がれた。
歴代天皇が、その皇位とともに継承してきた三種の神器に近いものと考えられる。

治暦4年(あるいは、康治2年)、内裏焼亡のとき、灰燼に帰し、他の剣をもってこれにかえたが、承久の乱でふたたび紛失し、新鋳した。
正嘉2年、勝光明院の宝蔵から出現したので新鋳の剣を廃して、治暦の剣をもちい、今にいたる。

敦明親王
長和3年(1014年)ごろより眼病を患い、政務に携わることが不可能となった三条天皇に対し、当時内覧であった左大臣藤原道長は、敦成親王への譲位を求めるようになる。
天皇はかたくなに拒んだが、この間に内裏の火災が相次いだため、道長はこれを天皇の不徳であるとする論法を持ち出す。
一月ほどの交渉の間に道長が折れ、次の東宮には三条天皇の第一皇子である敦明親王を立てることとした。

長和5年(1016年)1月29日 (旧暦)、三条天皇は譲位し敦成親王が践祚する(2月7日 (旧暦)に即位。後一条天皇)。
三条上皇は翌寛仁元年(1017年)5月9日 (旧暦)崩御。
その直後8月4日 (旧暦)に、敦明親王は道長に対し会談を求め、8月6日 (旧暦)道長が東宮御所に赴くと、東宮の地位を辞退する旨を打ち明けられる。

道長は翻意するよう(形式的に)説得するが敦明親王の意思は固く、結果として後一条天皇の皇太弟である敦良親王(のちの後朱雀天皇)が新たに東宮として立てられる。
道長が敦明親王を東宮として認めなかった、あるいは認めなくなかったという実証として、壺切の存在が挙げられる。
8月23日 (旧暦)の敦良親王立太子式から2週間後、内裏から壺切が授けられたが、敦明親王立太子の際にはこれを授けることを拒み、ついに敦明親王は立太子から辞退までの1年半、壺切を受けることがなかったのである。
敦明親王は皇位継承権を失い、小一条院の尊号を受け、太上天皇に次ぐ扱いを受ける。

後三条天皇
後朱雀天皇の御世、当時の関白である藤原頼通は、父道長に続いて外戚の地位を得るべく苦心したが徒労に終わり、そうこうしているうちに天皇は病を得て第一皇子で東宮であった親仁親王に譲位する(後冷泉天皇)。
その際、新帝の東宮には親仁親王の皇太弟である尊仁親王をあてるよう頼通に告げる。
尊仁親王の母は三条天皇の皇女禎子内親王であり、藤原氏を外戚としない。

頼通にしてみれば賛成できるはずもなく、あからさまに不服の態度をしめしたという。
また、尊仁親王を東宮としたいという天皇の考えを察した頼通が先手を打ち、東宮のことはゆっくりと考えるべきであるとして時間稼ぎに走ろうとしたところ、藤原能信が東宮のことは今すぐ決めるべきだと薦めて実現した。

結局のところ頼通、藤原教通の努力も実を結ぶことがなく、後冷泉天皇は皇子はおろか皇女すら得ることなく病により崩御し、尊仁親王が後三条天皇として即位する。
藤原氏を外戚としない天皇は、宇多天皇以来実に170年ぶりになる。
尊仁親王が東宮であった期間は23年間であったが、この間壺切は頼通が内裏に留め置いたため、東宮としてのシンボルを持たずに即位した天皇となる。

頼通の言い分では、この剣は藤原氏腹(つまり、藤原氏を外戚とする)の東宮のものであるから、尊仁親王に持たせるつもりはないということである。
天皇はならば壺切は不要であると述べ、即位の後にようやく献上された。

[English Translation]