天皇陵 (Imperial Mausoleum)
天皇陵(てんのうりょう)とは、天皇の墓として宮内庁が指定している墓。
考古学者の調査は厳しく制限されており大仙陵古墳のように実際に天皇あるいは皇族の墓であるか不明なものも多い。
概要
現在の宮内庁による区分では、天皇・皇族の墓のうち、天皇・皇后・太皇太后・皇太后のものを陵(みささぎ・りょう)、それ以外の皇太子や親王などの皇族のものを墓(はか・ぼ)と呼ぶ。
なお、実際には天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓の他にも、「追尊天皇」・「尊称天皇」の墓所や、いわゆる「神代三代」(日向三代とも、ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズ)の墓所、ヤマトタケルの墓所の一部および飯豊青皇女(飯豊天皇とも)の墓所は「陵」を名乗っている。
これらのほか、宮内庁が現在管理しているものには、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、髪・歯・爪などを納めた髪歯爪塔などの一種の供養塔、被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が考えられる陵墓参考地、などがあり、一般にはこれらを総称して陵墓(りょうぼ)という。
陵墓に指定されている古墳のうち、天皇陵は41基、皇后陵は11基、皇太子などの墓は34基であり、天皇、皇后、皇子名を合葬したものを差し引くと合計85基ある。
宮内庁管理の陵墓は、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在しており、歴代天皇陵が112、皇后陵など76で計188。
皇族等の墓が552。
準陵が42、髪歯爪塔などが68、伝承などから陵墓の可能性がある陵墓参考地が46あり、総数は896である。
同じ場所に所在するものもあるので、箇所数は458となる。
これら陵墓は現在も皇室による祭祀が行われており、研究者などが自由に立ち入って調査することができない。
しかしながら調査の許可を求める考古学界の要望もあり、近年は地元自治体などとの合同調査を認めたり、修復のための調査に一部研究者の立ち入りを認めるケースも出てきている。
陵墓の名前などは、下記の宮内庁管理の天皇陵一覧参照。
変遷
天皇が大王 (ヤマト王権)(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は巨大な前方後円墳であった(9代開化陵~30代敏達陵)。
7世紀になり、ヤマト王権が大陸の政治システムの影響を受けるようになると大型の方墳、円墳へと変化し、さらに7世紀中頃から8世紀初頭まで天皇陵には八角墳が採用されるようになる(舒明陵の段ノ塚古墳、天智陵の御廟野古墳、天武・持統合葬陵の野口王墓、文武陵の中尾山古墳)。
このような特別な八角墳が大王にのみ採用されたのは、畿内を中心とした首長連合の盟主であった大王の地位を、一般の首長を超越して中国の天子のような唯一の最高権力者として地位を確立しようとして形に表したという解釈がある。
奈良時代から平安時代初頭にかけての天皇陵は、土葬される例(聖武天皇)や、墳丘を作ったと思われる事例(桓武天皇)を経て、仏教思想の影響により、火葬の導入(持統天皇)や火葬後に散骨して大規模な造営を行わない事例(嵯峨天皇、淳和天皇)などが見られるようになる。
院政期の白河天皇にいたって仏式のお堂に納骨する方式が現れ、江戸時代の後水尾天皇以降は代々京都泉涌寺に石造塔形式の陵墓が建立された。
幕末にいたって尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。
明治天皇陵では、天智天皇陵に範を取ったといわれる上円下方式が採用され、以降、今日に至っている。
また、皇后陵は中国の古式に則って(例西太后の「定東陵」)天皇陵の東に造営されることになった。
そのため皇后陵は「○○東陵(○○のひがしのみささぎ)」と呼ばれる。
大正天皇以後、天皇・皇后の陵は現東京都八王子市の御料地内に作られることになり、武蔵陵墓地が成立した。
一方、皇族の墓は明治天皇の皇子の死を契機として現東京都文京区大塚の護国寺裏山に設けられることとなり、現在、豊島岡墓地となっている。
管理
陵墓が今日のように整備され、管理が強化されるようになったのは明治以後のことである。
律令制下においては、天皇陵をはじめとする陵墓は国家によって管理されることになっており、大宝令・養老令では担当部署として治部省下に諸陵司が置かれている。
その後、天平年間には諸陵司が拡充され、諸陵寮となった。
平安時代前期に編纂された延喜式には、諸陵寮管理下の陵墓の一覧表が記載されているが、このころの墓には外戚(皇妃の実家:藤原氏など)の墓も含まれている。
管理の具体的内容としては、陵戸・墓戸の設置がある。
醍醐天皇陵の管理が醍醐寺に委ねられて以後、寺院内に造営された陵墓の管理は所領を与える条件で各寺院に任されることになり、陵墓管理が国家の手から離れていく要因となった。
一方、各陵墓に対しては荷前の幣(のさきのへい)と呼ばれる国家による祭祀が行われていた。
この祭祀はすべての陵墓に等しく行われたのではなく、重要視されたものは近陵・近墓、そうでないものは遠陵・遠墓とのランク分けがなされ、祭祀に際しての貢物の量が異なっていた。
祭祀に際しては貴族が派遣されることになっており、その役目を荷前の使と呼んだ。
しかし、陵墓に対する「墓=死=穢れ」といったイメージが貴族たちに嫌われたことから、次第に忌避されるようになり、陵墓の所在が不明確になっていく理由のひとつになった。
中世になり天皇家の力が衰えると荒れ放題となる陵墓もあり、中には伝安閑陵古墳のように戦国大名の城として改造されたものまであった。
現在治定されている天皇陵のうち、奈良時代までの天皇陵については、歴史学的・考古学的に同意できるものは推古天皇陵、天智天皇陵、天武・持統天皇陵など数か所程度とされる。
平安時代~室町時代のものは、薄葬によって位置を特定することが困難なものや陵が置かれた寺院が廃滅したことによって所在が不明になってしまったものなどが多く、ますます歴史学的・考古学的信頼度は低下する。
後白河天皇の法住寺陵、後醍醐天皇の如意輪寺などのように近世にいたるまで管理され、伝えられたものはむしろ少数派である。
宮内庁は「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と尊厳を保持しなければならない」という理由で考古学的調査の許可を拒み続けている。
また、歴史学的・考古学的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、祭祀を行っている場所が天皇陵である」としている。
現在は全国の陵墓所在地を5つに分け、宮内庁書陵部が以下のように管理を行っている。
多摩陵墓監区事務所(東京都八王子市・武蔵陵墓地=大正天皇陵・昭和天皇陵、管轄=山形・新潟・栃木・東京・神奈川・長野)
桃山陵墓監区事務所(京都市伏見区・桃山陵墓地=明治天皇陵・昭憲皇太后陵、管轄=京都・大阪・兵庫・岡山・広島・山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・宮崎・鹿児島)、
畝傍陵墓監区事務所(奈良県橿原市・神武天皇陵=奈良・三重・岐阜・愛知・静岡)、
月輪(つきのわ)陵墓監区事務所(京都市東山区・泉山陵墓地=孝明天皇陵・月輪陵、管轄=富山・石川・滋賀・京都・兵庫・鳥取・島根)、
古市陵墓監区事務所(大阪府羽曳野市・応神天皇陵、管轄=大阪・兵庫・和歌山・香川・徳島・愛媛・高知)
山陵探索・治定・修陵
現在につながる天皇陵の探索および治定は、そのほとんどが江戸時代に行われており、一部のものについては明治時代以降にまでずれこんだ。
江戸時代には、尊皇思想の勃興とともに、天皇陵探索の気運が高まり、松下見林、本居宣長、蒲生君平、北浦定政、谷森善臣、平塚瓢斎などが、陵墓の所在地を考証したり、現地に赴いたりしており、江戸幕府による修陵もこうした動きと無関係ではない。
現在の学問的水準からみれば問題の多い江戸時代の治定作業ではあるが、それらは決していい加減なものではなく、天皇陵について記載された文献資料を集め、それと地名や土地の伝承などを照らし合わせることで行われており、当時としてはかなりの高水準のものであった。
「修陵」とは、荒れ果てた陵を修繕することである。
江戸時代の元禄・万治・延宝・享保・文久などの各時期に修陵事業が行われた。
中でも、幕末の「文久の修陵」は、大がかりな土木工事を伴った。
水戸藩主の徳川光圀は元禄期に幕府へ陵墓の修理を願い出たが、この時には許可されず、代わって幕府が行っている。
文久の修陵
宇都宮藩の建議で幕府が1862年(文久2)から行った事業が「文久の修陵」である。
こうした事業を幕府が許可した背景には、幕末という当時の世情が大きく影響している。
この際に、各陵の工事前と工事後の様子を絵師に描かせ、上下二卷にまとめて1867年(慶応3)朝廷と幕府に献上したものがいわゆる「文久山陵図」である。
現在、朝廷献上本は宮内庁書陵部の、幕府献上本は国立公文書館の所蔵となっている。
2005年に国立公文書館本を元版とする『文久山陵図』が出版された。
文久の修陵で多少でも手が加わったのは109か所におよぶ。
天皇陵だけでも、山城34、大和34、河内24、和泉3、摂津1、丹波2で全部で76か所となっている。