孝謙天皇 (Empress Koken)
孝謙天皇(こうけんてんのう、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日_(旧暦)(770年8月28日))は、日本の第46代天皇(在位:天平勝宝元年7月2日 (旧暦)(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日 (旧暦)(758年9月7日))。
父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。
史上6人目の女帝で、天武天皇系からの最後の天皇である。
即位前の名は阿倍内親王。
生前は宝字称徳孝謙皇帝と称した。
高野天皇・高野姫天皇・倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)とも呼ばれたこともある。
淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇(しょうとくてんのう、稱德天皇、在位:天平宝字8年10月9日 (旧暦)(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))。
この称徳天皇以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいない。
皇太子
聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、天平10年1月13日 (旧暦)(738年2月6日)に娘・阿部内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。
結婚はできず、子もなかった。
将来皇位につくことが決定した事が理由と考えられる。
孝謙天皇
天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。
母・光明子(光明皇后)が後見し、皇太后のために紫微中台を新設。
長官には皇太后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が任命され、皇太后を後盾にした仲麻呂の勢力が急速に拡大した。
これに反抗した橘奈良麻呂は討たれる。
また天武の孫である何人かの王が皇位を狙って挙兵したが、いずれも失敗におわっている。
孝謙上皇
天平宝字2年(758年)に孝謙天皇は退位し、仲麻呂が後見する大炊王が即位して淳仁天皇となる。
孝謙上皇は代始改元を拒み、舎人親王(淳仁の父)への尊号献上にも抵抗する(最終的には光明皇太后の強い要請により実現)など淳仁天皇との軋轢を繰り返した。
引き続き権力を握った仲麻呂(恵美押勝に改名)は唐で安史の乱が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国新羅の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなどの政策を推し進めた。
天平宝字4年(760年)、光明皇太后が死去。
翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。
天平宝字6年(762年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日 (旧暦)(6月23日)に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。
称徳天皇
光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。
即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。
また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。
天平神護元年(765年)には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。
神護景雲3年(769年)、太宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を報じた。
これを確かめるべく、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡に送られたが、この託宣は虚偽であると復命した。
これに怒った道鏡は清麻呂を因幡員外介として左遷し、さらに称徳天皇は清麻呂を除名し大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。
その後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営した。
しかし翌年、称徳天皇は河内の由義宮に行幸し同地を西京とする旨を宣したのち、病臥、100日余で崩御した。
このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。
病気回復を願う祈祷(現代では迷信だが、当時は立派な医療行為のひとつ)が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張(さらに踏み込んで暗殺説)もある。
称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなすこともなかった。
また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位した。
また、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼女が禁じた墾田私有は再開された。
陵墓
奈良県奈良市山陵町にある高野陵(たかののみささぎ)と比定されているが、孝謙天皇陵と比定されている佐紀高塚山古墳は佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳であり、その比定は疑問視されている。