岩倉宮 (Iwakuranomiya)
岩倉宮(いわくらのみや)は鎌倉時代初期に存在した宮家の一つ。
しかし、宮内庁には宮家の一つとして公式には認められていない。
概略
順徳天皇皇子・忠成王は、順徳天皇流刑先の佐渡島で流刑先へ供奉した女房「従三位清季卿女」を母として誕生した。
その後経緯不詳ながら上洛し、宝治元年(1247年)2月に平経高の計らいにより密かに元服したとされる(『葉黄記』)。
『本朝皇胤紹運録』によればこの後「岩倉宮」また「広御所宮」を名乗ったという。
忠成王は弘安2年に没したが、一子尊忠は後に梶井門跡の権僧正となり、「入江宮」「広御所宮」「岩倉宮」を名乗ったという(『梶井円融房在位親王伝』)。
忠成王、尊忠と親子で同じ宮号を名乗ったことから、岩倉宮を最初の世襲宮家と見る意見がある一方、宮内庁の資料『皇室制度資料』では岩倉宮を宮家の一つとしてみることに対して慎重な見解を取っている。
由来
「岩倉」「広御所」とも宮号の由来は居所か領地に縁があると推測されるのみで、詳細は未詳である。