式子内親王 (Imperial Princess Noriko)
式子内親王(のりこ(しょくし・しきし)ないしんのう、久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、平安時代末期の皇族、歌人。
後白河天皇の第三皇女。
母は藤原成子(藤原季成女)で、守覚法親王、亮子内親王(殷富門院)、高倉宮以仁王は同母兄弟。
高倉天皇は異母弟にあたる。
斎院。
萱斎院、大炊御門斎院などとも呼ばれた。
法号承如法。
新三十六歌仙の一。
なお、内親王の名をショクシとするのは歌道の有職読みであって、定家をテイカとし、俊成をシュンゼイとするごとく、古人を敬って行う呼び名である。
シキシも同様。
むろん本人や近親者たちが「式子」という名をショクシと読んだわけではない。
この名の正式な読みかたは今もって不明であるが、角田文衞の説によりノリコとするのが一般的であるようだ。
略伝
平治元年(1159年)より嘉応元年(1169年)まで斎院として賀茂神社に奉仕し、退下後元暦2年(1185年)准后宣下。
一時八条院あき子内親王の下に身を寄せ、建久初年(1190年)ごろには出家したとされるが、この前後橘兼仲の妻を巡る事件に連座するなど身辺多端であった(この事件についてはやがて処分が撤回された)。
晩年に守成親王(順徳天皇)を養子とする話があったが、実現しないままに享年53歳で薨じた。
薨去前後の病状は藤原定家『明月記』に詳しい。
また長らく生年が不詳とされてきたが、1980年代に資料(『兵範記』裏書)の発見により久安5年の生まれであることが判明した。
歌作
新古今の代表的女流歌人として知られ、藤原俊成に師事して多くの優れた作を残した(彼の『古来風躰抄』は内親王に奉った作品であるという説が一般的である)。
『後鳥羽院御口伝』には「斎院はことももみもみとあるやうに詠まれき」とあるように、艶麗でありながら俊成の閑寂さをも併せもつ独自の歌境がその魅力であると言えるだろう。
季の歌と特に恋歌に秀作が多く、自らを内に閉じこめるような深沈とした憂愁のさまや、夢と現実との狭間にある曖昧な様子や感傷的な追憶を好んで詠むこと、運命に対して弱い自分を守ろうとする凛乎とした強さが歌のうちにあることなどから、その生涯や恋愛についてさまざまな推測が成されるが、いずれも憶測の域を出ていない。
歌作はその大半が題詠であり、このことも彼女の生涯を考証するうえでの障害の一つとなっている。
後鳥羽天皇による正治初度百首の作者の一人としてこれを詠進した以外には歌会、歌合等の記録も残っていない。
なお内親王にとっては、現存する作品のなかではこの百首歌が最後の作品である。
勅撰集では『千載和歌集』に初出(十首)。
以下『新古今和歌集』に四十四首採られたのを初めとして勅撰撰入は類計157首。
家集に『式子内親王集』(一名『萱斎院集』)があり、四百首足らずの作品が現存する。
家集『式子内親王集』の内容はきわめて不充分で、本文としても筋の悪いものが多い。
内親王の作ははやく散逸してしまったらしく、ある時期まで残っていた三つの百首歌(うちひとつは正治百首)を後人がまとめ、さらに勅撰集にあって右の三百首のなかに見られない作六十首余を拾って成ったのが『式子内親王集』である。
このほかに彼女の作として現在までに知られているのは十数首があるのみである。
定家との関係
俊成の息子藤原定家は養和元年(1181年)以後、折々に内親王のもとへ伺候した。
一説によれば内親王のもとで家司のような仕事を行っていたのではないかとも言われているが詳細ははっきりしない。
定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実である。
おそらくは定家から九条家歌壇の動向や所謂新儀非拠達磨歌などの情報を得たことなどもあったであろう。
後に中世後期になって、定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説があらわれ、これが能『定家』などを生む契機となった。
一般にこの説は中世歌学特有の伝説の類として否定されているが、文献学的に言えば内親王に関する資料があまりにも少ないがために、これを積極的に肯定することも、或いは否定することもできないというのが実情である(定家が内親王より十三歳年下であるというのが否定説の唯一の根拠)。
また近年法然とのあいだに消息の往来があったことが判明し、彼が密かな思慕の対象であったとする説もあるが、これも定家説同様に決定的な根拠は何一つないといっていい。