後光厳天皇 (Emperor Gokogon)
後光厳天皇(ごこうごんてんのう 延元3年/暦応元年3月2日(1338年3月23日) - 文中3年/応安7年1月29日(1374年3月12日) 在位:正平8年/文和元年8月17日(1352年9月25日) - 建徳2年/応安4年 3月23日(1371年4月9日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇である。
名を弥仁(いやひと)という。
明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇からは除外されてしまっている(それまでは一貫して現皇統につながる北朝が正統とされていた)。
系譜
光厳天皇の第二皇子。
母は、正親町公秀の娘、陽禄門院・藤原秀子。
略歴
幼少時には、後伏見天皇の女御で祖母にあたる広義門院(西園寺寧子)に後見される。
1351年、北朝を擁する足利尊氏が南朝に帰順し、皇統が一時的に南朝へ統一される観応の擾乱正平一統が成立する。
翌52年には南朝が京を軍事的に制圧して足利義詮を追い、正平一統は破綻。
北朝は京都を奪還するものの、南朝方が撤退する際に北朝の光厳天皇(父)、光明天皇(叔父)、崇光天皇(兄)及び皇太子の直仁親王を吉野へ連行する。
三上皇の拉致により、北朝では公事が停止し、院宣を発する治天の君や三種の神器も無い状態であった。
弥仁は妙法院への入室が予定されていたが、京都の足利義詮は二条良基と相談の上、北朝再建のために広義門院に要請し、延臣に擁立されて即位した古代の継体天皇の先例も引照して、8月17日に弥仁は践祚され、後光厳天皇として即位。
後光厳の正統性の欠如などで北朝権威は弱体化し、南朝は京を奪還するなど活発に活動、後光厳も京都から近江国などへ下向することも何度かあった。
1370年(応安2年8月)には、第一皇子の緒仁親王(後円融天皇)への譲位を幕府に諮問するが、1357年に帰京していた兄の崇光が自らの皇子である伏見宮栄仁親王への皇統返還を主張する。
幕府では3代将軍足利義満のもと、管領の細川頼之が後光厳の意思を尊重するべきであると回答し、翌1371年(応安4年3月23日)に、緒仁へ譲位して院政を敷く。
1374年(文中3年/応安7年1月29日)に病を得て崩御。
在位中の元号
観応 (1351年8月17日) - 1352年9月27日
文和 1352年9月27日 - 1356年3月28日
延文 1356年3月28日 - 1361年3月29日
康安 1361年3月29日 - 1362年9月28日
貞治 1362年9月28日 - 1368年2月17日
応安 1368年2月17日 - (1371年3月23日)
陵墓・霊廟
京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に葬られた。