懿徳天皇 (Emperor Itoku)
懿徳天皇(いとくてんのう、綏靖天皇29年(紀元前553年)- 懿徳天皇34年9月8日 (旧暦)(紀元前477年10月6日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第4代の天皇(在位:懿徳天皇元年2月4日 (旧暦)(紀元前510年3月15日) - 同34年9月8日 (旧暦)(紀元前477年10月6日))。
大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)・大倭日子鉏友命(『古事記』)。
いわゆる欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的である(実在説もある)。
皇居
都は軽曲峡宮(かるのまがりおのみや。
現在の奈良県橿原市見瀬町・白橿町か)。
ただし、『古事記』には「軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)」とある。
事績
特に記録されていない。
安寧天皇11年(紀元前538年)1月に立太子。
懿徳天皇元年(紀元前510年)2月に即位。
在位34年で崩御。
『日本書紀』に77歳、『古事記』に45歳。
なお、中世の『古今和歌集序聞書三流抄』には、天皇が出雲国に行幸して、素戔嗚尊に出会うという逸話が見える。
御陵
畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまさごたにのえのみささぎ)に葬られた。
『古事記』に「畝傍山の真名子(まなご)谷の上」。
現在、同陵は奈良県橿原市西池尻町に所在する俗称「マナゴ山」(山形墳)に比定されている。
同市畝傍町のイトクノモリ古墳はその名から懿徳陵とされることもあったが、一説に皇后陵だともいわれる。