敏達天皇 (Emperor Bidatsu)
敏達天皇(びだつてんのう、宣化天皇3年(538年)? - 敏達天皇14年8月15日 (旧暦)(585年9月14日)は、第30代天皇(在位:敏達天皇元年4月3日 (旧暦)(572年4月30日) - 同14年8月15日(585年9月14日))。
和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)、沼名倉太珠敷命(古事記)。
他田天皇。
御子、沼名倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)命、他田(をさだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、十四歳(とをまりよとせ)なりき。
(この後は、六人の比売(ひめ)を娶り、二十四人の御子を設け、この中御子の一人の御子が、つまり孫が即位したことを述べている。)
(分注、甲辰の年の四月六日に崩りましき。)
御陵は川内の科長(しなが)にあり。
(『古事記』)他田宮は、奈良県磯城郡。
川内は、大阪府南河内郡。
系譜
欽明天皇の第二皇子。
母親は宣化天皇の皇女・皇后石姫皇女。
皇居
初め百済大井宮(くだらのおおいのみや、大阪府河内長野市太井・奈良県北葛城郡広陵町百済・大阪府富田林市甲田・奈良県桜井市など諸説あり)を皇居としたが、575年卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや(他田宮)、現在の奈良県桜井市戒重へ遷った。。
大臣・大連
物部守屋がそのまま連(おおむらじ)を引き継ぎ、蘇我馬子が大臣(おおおみ)になった。
外交・経済
欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった。
同時に新羅とも通交し、任那の調を受け取っていたと記されている。
また、世界最古の企業とされる金剛組が敏達天皇6年(578年)に発足したと伝わっている。
仏教政策
敏達天皇は廃仏派よりであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立すると言う構図になっていた。
崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、585年に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。
その年の8月15日 (旧暦)病が重くなり死去(なお、古事記では没年は584年とされている)。
仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された。
陵墓
河内磯長中尾陵(太子西山古墳、大阪府南河内郡太子町 (大阪府)大字太子)が敏達天皇陵に比定されている。