朝原内親王 (Imperial Princess Asahara)

朝原内親王(あさはら(あしたはら)ないしんのう、宝亀10年(779年) - 弘仁8年4月25日(817年5月18日))は、桓武天皇と酒人内親王の皇女。
斎宮、のち平城天皇妃。

延暦元年(782年)8月1日、4歳で斎王にト定された。
延暦4年(785年)8月24日、斎王派遣の儀式を旧都の平城京でおこない、朝原内親王の伊勢下向を見送るため、桓武天皇は長岡京から旧都の平城京へ行幸した。
9月7日、朝原内親王は父の桓武天皇と大勢の臣下達に見送られ、伊勢の斎宮へと下向していった。
9月15日には斎宮に到着した。

延暦15年(796年)2月15日、斎宮で斎王解任のための奉幣使が立てられ、3月15日には平安京から朝原内親王の帰京を求める奉迎使左少弁兼左兵衛佐橘朝臣入居が派遣された。
これにより、朝原内親王は平安京に帰京する。
帰京後の7月9日、桓武天皇の皇女達の中では最初に三品に叙せられた。
12月14日には桓武天皇が京中巡幸の途中、朝原内親王邸を訪ねて、従五位以上の人々に物を賜った。
のち異母兄の安殿親王(後の平城天皇)に入内。

延暦17年(798年)9月19日、朝原内親王は越後国の田地二百五十町を与えられた。
大同元年(806年)3月17日には桓武天皇が崩御し、5月には平城天皇が即位したため、それに伴い妃となる。
しかし平城天皇は同4年(809年)4月、弟嵯峨天皇に譲位した。
同5年(810年)には「薬子の変」が起きた。
「薬子の変」の際、朝原内親王は平城上皇には同行せず、弘仁3年(812年)の5月、異母姉妹の大宅内親王と揃って妃の位を辞した。

弘仁8年(817年)4月6日に病に臥した。
嵯峨天皇が遣わした六人の僧達が、朝原内親王の病気平癒を祈ったが、4月25日、39歳で亡くなった。
朝原内親王は、自分の諸領地を東大寺に施入させる事と、春には父の桓武天皇のために大般若経を、秋には母の酒人内親王のために金剛般若経を唱えさせる事を遺言した。

[English Translation]