桓武天皇 (Emperor Kammu)
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月7日(806年4月9日))は、日本の第50代の天皇である。
山部親王(やまべのみこ)。
略歴
桓武天皇は白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子として天平9年(737年)に産まれた。
母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔と続日本紀に記されている。
皇后藤原乙牟漏により安殿(のちの平城天皇)、神野(のちの嵯峨天皇)をなし、妃藤原旅子により大伴(のちの淳和天皇)をなす。
初名は山部王。
父の白壁王の即位後も母の高野新笠が身分の低い帰化氏族和氏出身であったため、立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指しており、侍従・大学頭・中務卿などを歴任していた。
しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争によって異母弟である前皇太子他戸親王とその母であった皇后井上内親王が突如廃されて宝亀4年(773年)1月2日に立太子。
天応元年(781年)4月15日、即位。
平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国への遷都を行った。
はじめに784年に長岡京を造営するが、794年に改めて平安京を造営した。
また東北地方を侵略し蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送った。
しかし晩年にはこのような軍事と造作が百姓を苦しめているとして藤原式家の藤原緒嗣に批判された。
文化面では続日本紀の編纂を発案したとされる。
最澄と空海が唐から帰国し日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武治下である。
井上内親王と他戸親王の不自然な死、治世のはじめに、皇太子とした弟早良親王を藤原種継暗殺の廉で785年流罪とし配所で死なしめたという暗い面も持ち合わせた。
怨霊を恐れ、延暦19年(800年)7月19日、早良親王を崇道天皇と追号し、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した。
最澄や空海の保護者として知られる一方で、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎた事から、所謂「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。
また後宮の紊乱ぶりも言われており、後の『薬子の変』へとつながる温床となった。
延暦25年(806年)3月17日に崩御。
諡号・追号・異名
日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやでりのみこと)と和風諡号をおくられた。
それとともに漢風諡号として、桓武天皇がおくられた。
また柏原帝(かしわばら)、天國押撥御宇柏原天皇とも呼ばれた。
在位中の元号
宝亀
天応
延暦
陵墓・霊廟
陵墓は京都市伏見区桃山町の柏原陵(かしわばらのみささぎ)とされる。
生前、宇多野(うたの)に葬って欲しいと固執していたが、占等の理由で、伏見の柏原陵になった。
明治になり、平安神宮に平安京最初の天皇として祀られた。
また全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
今上天皇の発言
平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において明仁は、翌年のサッカーFIFAワールドカップ共催に際してのコメントの一部で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに大韓民国とのゆかりを感じています」との発言を行った。
この発言は、日本ではさほど大きく取り上げられなかったものの韓国のマスコミでは大きく報道され、話題となった。
そのうち一部では、「天皇家は朝鮮民族の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」などの論理を大きく飛躍させる報道があった。
実際には、そもそも征服王朝である百済において、扶余たる百済王族と韓族たる民衆とでは言葉すら通じないほどの民族的差異があったこと、加えて、百済の民衆と現在の朝鮮半島に暮らす朝鮮民族との間にすら血統的連続性はないこと、などの通説からして、「天皇家が朝鮮民族の血筋を引いている」という表現は明らかな誤謬であるといえる。
また、高野新笠の先祖である渡来系の和氏(やまとうじ)は、渡来の時期が古い家であり、桓武天皇の時代には日本に土着してかなりの世代(武寧王から4代、和氏となって6代)を経ているため「朝鮮民族の子孫」という表現は適切ではない。
そもそも、「韓国人」の名称が使われ始めたのは李氏朝鮮が国号を大韓帝国と変えた頃からである。
また、和氏が武寧王の子孫であるかどうかは、学術的に少なからず疑義を持たれており、いずれにしても1000年以上前の「続日本紀に記されていることにゆかりを感じる」という程度の発言であるにも関わらず、この発言が韓国では大きく話題にされ、当時の大統領であった金大中が大統領談話で言及までしたことは、天皇の発言が大きな影響力を持つことを物語る実例の一つとなった。