欠史八代 (Kesshi-Hachidai)
欠史八代(けっしはちだい)(正確な表記は、闕史八代)とは、『古事記』および『日本書紀』において、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
これらの天皇は実在せず後に創作された架空のものだとする考えが戦後史学界で支配的である。
欠史八代の天皇
綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)
概要
そもそもこれらの八代の天皇については、中国の革命思想(辛酉革命)に合わせ、また天皇家のルーツがかなり古いところにあると思わせるべく、系譜上の天皇を偽作したため生まれたのであろうとする。
辛酉とは干支のひとつで中国では革命の年とされる。
21回目の辛酉の年には大革命が起きる(讖緯説)とされる。
この説によれば日本では聖徳太子が政治を始めた601年(厳密には6世紀末とされているが、表立った活動の記録はない。)が辛酉の大革命の年である。
すると21×601260よりAD601-1260BC660(西暦0年はない)が神武天皇即位年と算出される。
第10代崇神天皇は別名ハツクニシラススメラミコトといい、すなわち初めて天下を治めた天皇であることを名称で物語っている。
これは本来の系図では、崇神天皇が初代天皇とされたもので、それ以前はある時期に加えられたものであろうことを推察させる。
1978年埼玉県稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、大彦命から始まる8代の系譜が刻まれている。
このオホヒコは、記紀にいう四道将軍大彦命と考えられ、第8代孝元天皇の皇子のはずであるが、銘文では何も触れられていない。
鉄剣が作られた頃はそのような天皇(大王)の存在は系図上確立されていなかったことを物語る。
4代・6代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り、和風諡号の制度ができたのは6世紀半ばごろであるし、神武・綏靖のように、伝えられる名が実名であるとすると、それに「神」がつくのも考え難く、やはり神話的ないし和風諡号的なものであるので、これらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと推定できる。
陵墓に関しても欠史八代の天皇群には矛盾が存在している。
第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には、考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳が存在する。
だが、第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世になって築造された古墳か、自然丘陵のいずれかが存在している。
その上、そういった当時(古墳時代前~中期頃)に築造された可能性のある古墳もなければ、さりとて弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。
系譜などの『帝紀』的記述に止まり、事跡などの『旧辞』的記述がなく、あっても綏靖天皇がタギシミミの反逆を討ち取ったという、綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。
これらは、伝えるべき史実の核がないまま系図だけが創作された場合にありがちな例である。
総て父子相続となっており、兄弟相続は否定されている。
父子相続が兄弟相続に取って代わられたのはかなり後世になるため、歴史に逆行していることにもなってしまう。