欽明天皇 (Emperor Kinmei)
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年) - 欽明天皇32年4月15日 (旧暦)(571年5月24日))は、第29代の天皇(在位:宣化天皇4年12月5日 (旧暦)(539年12月30日) - 欽明天皇32年(571年)4月15日 (旧暦))。
天国排開広庭天皇・志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(しきしま)とも。
この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
弟(おと)、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)天皇、師木島(しきしま)の大宮に坐しまして、天の下治めらしめしき。
師木島の大宮は、奈良県磯城郡。
系譜
これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがった。
特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である蘇我堅塩媛や蘇我小姉君を妃とした。
敏達天皇崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。
任那
百済の聖明王(『三国史記』では聖王、中国の正史では諱を明とすると書かれている)の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌とソウル特別市を放棄した(『三国史記』によれば538年)。
さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。
562年(欽明天皇23年)には、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。
(『日本書紀』には新羅は白旗を立てて欺いたと書かれている。)
(同年の『三国史記』の新羅本紀にも伽耶が反乱を起こしたため、軍隊を送り、白旗を立てて敵を驚かせたという似た記述が見られる。)
なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が『日本書紀』にある。
ちょうどこのころは、大和朝廷が任那からの影響力を失い、新羅が任那を圧迫していた。
百済の弱体化もあり、その勢力を維持できず新羅に勢力圏を明け渡した時期とも考えられる。
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。
第一皇子の箭田珠勝大兄皇子はすでに552年に早世していたため、554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。
即位年をめぐる議論
前述通り『日本書紀』によれば、欽明天皇は庶兄・宣化天皇が崩御した後即位したとされている。
しかし、同書の紀年には幾つかの矛盾が見られ、それを解決するための議論がいくつか提示されてきた。
まず、平子鐸嶺は父の継体天皇の没年を『古事記』の527年(丁未年4月9日)とし、その後2年ずつ安閑・宣化が在位したとした。
また、『日本書紀』での継体の没年(継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる531年に欽明天皇が即位したと主張した。
これにたいして喜田貞吉は欽明の即位年は531年という点では同意した。
その後、彼の即位を認めなかった勢力が3年後の534年に安閑を擁立、彼は1年で崩御した。
続いて宣化を擁立する等欽明朝と安閑・宣化朝は一時並立し、宣化の崩御により解消されたと主張した。
林屋辰三郎も大筋では喜田説に同意するが、継体は暗殺されたと主張した。
また、水野祐・白崎昭一郎は継体の没年については平子説に同意する。
しかし、水野はその後は安閑が8年間在位し、535年に欽明が即位、宣化は架空の人物と見なした。
そして、白崎は安閑の在位は4年でその後はさらに4年宣化・欽明両朝が並立したとみなした。
これに対して黒岩重吾は『日本書紀』継体天皇廿五年での『百済本記』引用「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」天皇および太子、皇子が同時に死んだという記述等を根拠にそれぞれ実際には即位していない安閑・宣化は暗殺・軟禁されたとした。
また、大伴金村は任那4県を賄賂と引き換えに割譲したことではなく、彼ら庶兄を推したために後継者争いに敗れて失脚したと主張した。
これらのうち、並立説については史料的根拠に乏しい事等を理由に反対する意見もある。
もし書紀・水野説以外のいずれかが正しければ、欽明天皇は現在の皇室から少なくとも遡れる継体天皇以降の歴代天皇では昭和天皇・明治天皇に次いで長く在位した(推古天皇または天武天皇が事実上の初代天皇で、それ以前はヤマト大王だったのではないかという説は置いて)事になる。
しかし、いずれも推測の域を出ないのが現状である。
仏教公伝
552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する(仏教伝来そのものに関しては、『上宮聖徳法王帝説』(「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」)『元興寺伽藍縁起』(天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月)を根拠として戊午年・538年とする説が有力である。
欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられている。)。
これによって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までした。
これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。(仏教公伝)
皇居
都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。
『古事記』に「師木島大宮」とある。
御陵
『古事記』に記載、無し。
『日本書紀』、『延喜式』によれば、檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬られた。
同陵は奈良県高市郡明日香村平田の梅山古墳(前方後円墳・全長140m)に治定されているが、橿原市の見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)とする説もある。
なお、檜隈坂合陵には後に612年(推古天皇20年)に堅塩媛が改葬されている。