正躬王 (Prince Masami)

正躬王(まさみおう、延暦17年(798年)-貞観5年(863年)5月)は平安時代初期の皇族。
万多親王(桓武天皇の皇子)の第7王子。
子に平住世・女子(光孝天皇後宮・斎院穆子内親王の母)らがいる。
彼の子孫はその後、桓武平氏を賜った。

幼くして聡明であり、18歳で大学寮の試験に及第。
天長6年(829年)従四位下を授かる。
弾正台・刑部大輔・京職を歴任。
承和7年(840年)参議に任じられる。
承和8年(841年)大和国国司。

承和9年(842年)弁官になる。
同年7月に起きた承和の変で橘逸勢らの謀反を訊問している。

承和11年(844年)山城国田使長官になる。

承和12年(845年)法隆寺の僧善愷が少納言登美直名に不正があると訴えた。
裁判を扱う弁官は左大弁正躬王以下6人で右少弁伴善男も含まれた。
正躬王ら5人の弁官はこの訴状を受理したが、善男が僧侶が法体のまま訴訟を起こす事は僧尼令に違反しており、訴状を受理することは違法であると反対した。
正躬王ら5人の弁官は僧尼令の該当する条項が過去において実際に適用された事がないことを理由に審理をはじめようとするが、善男は違法の訴えを許したと正躬王らを告発した。
法理論争となり、明法博士讃岐永直らが訴状を鑑定して、裁定することになり、結果訴状の受理は違法とされた。
正躬王ら五人の弁官は官爵一階を削られた。

嘉祥元年(848年)従四位下を授けられ、治部卿になる。
仁寿元年(851年)従四位上を加える。
仁寿2年(852年)丹波守に任じられ、民政に高い治績をあげた。
斉衡2年(855年)正四位下に進み、大宰帥を拝する。
6年間、現地に在官して貞観2年(860年)に帰京。
貞観3年(861年)参議を拝し、弾正大弼となる。
貞観5年(863年)兼越前国権守。
同年5月、薨去。

[English Translation]