淳和天皇 (Emperor Junna)
淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月7日)、在位:弘仁14年4月27日(823年5月30日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。
西院天皇ともいう。
系譜
桓武天皇の第七皇子。
母は、藤原百川の娘・藤原旅子。
皇后正子内親王との間に恒貞親王を儲けた。
他に贈皇后高志内親王などの妃がおり、子も多数いた。
平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。
略歴
弘仁元年9月13日(810年10月14日)、薬子の変後に廃太子された高岳親王(平城天皇の子)に代わって立太子した。
弘仁14年4月27日(823年5月30日)、即位。
これに伴い、大伴氏が伴氏と改姓している。
天皇の御名と同姓なのは畏れ多いと大伴氏が判断したからだといわれている。
天長10年2月28日(833年3月22日)、仁明天皇に譲位し退位。
清原夏野ら良吏の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正した。
また土地対策を行い、税収の増加に努めた。
また、『令義解』た『日本後紀』の編纂が行われた。
表面的には比較的平穏な時代であった。
だが、その即位は天皇個人が望んだ皇位継承ではなく(『日本後紀』によれば、大同元年5月1日(806年5月22日)に大伴親王(当時)が父帝の死を機会に臣籍降下を願い出て皇太子(平城天皇)に慰留されている)、更に有力貴族の後ろ盾のいない息子恒貞親王が仁明天皇の皇太子になったことに不安を抱いていたと言う。
退位して太上天皇になった天皇は忠実な側近藤原吉野に親王の後事を託して崩御するが、その不安は承和の変として現実のものとなった。
承和7年5月8日(840年6月7日)、崩御。
死にあたり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨された。
異名・別名
名(本名)は大伴(おおとも)。
和風諡号は日本根子天高譲弥遠尊(やまとねこあめのたかゆずるいやとおのみこと)。
譲位後の在所であった淳和院(現在の京都市中京区西院)からつけられた西院天皇(さいいんてんのう)の異称がある。
在位中の元号
天長 824年 - 833年
陵墓・霊廟
淳和上皇自身の意向により火葬され、その遺骨は京都市西京区大原野南春日町の大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)で散骨されたと言われている。