皇別摂家 (Kobetsu Sekke)

皇別摂家(こうべつせっけ)とは、江戸時代に摂家を相続した皇族及びその男系の子孫たちのこと。

概説

江戸時代には、このほかに皇族出身の堂上家として次の二人がいる。
第106代正親町天皇の孫の八条宮智仁親王の第3王子で源氏(正親町源氏)を称し広幡家を興した広幡忠幸
第112代霊元天皇の孫の有栖川宮韶仁親王の第4王子で西園寺家を相続した西園寺公潔
しかし、いずれも男子を残すことなく薨去しているため、ことさらに「皇別」として注目されることはない。
この言葉は、弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸から渡来した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ造語である。
太田亮が1920年(大正9年)に刊行した『姓氏家系辞書』のなかで近衛信尋を「皇別摂家の鼻祖」と呼んだのがこのことばの初出である。
一部の愛好者のみがこのことばを細々と伝えてゆくなかで、摂家だけではなく、そこから新しく分家を興した者たち、養子縁組に出て他家を相続した者たち、さらにはその男系子孫たちをも「皇別摂家」というカテゴリでくくるようになっていった。

皇位継承問題との関連

現皇室の男系の血統が断絶する可能性が高まり、2004年(平成16年)11月頃から小泉純一郎内閣総理大臣が皇位の女系継承を容認する皇室典範の改正を提起した。
その後、皇位継承問題が国民的議論として浮上した。
しかし、血縁が遠すぎて皇位継承者として国民の支持が得られないと反対派から批判された「旧皇族」に代えて、彼ら「皇別摂家」から皇位継承者を迎えてはどうかとの意見が男系維持論者の一部から提起された。
しかし、皇族でなくなってからの期間は逆に「旧皇族」よりもはるかに長い。
国民の間での知名度もきわめて低く、皇位継承者としての正統性の確立が見込まれないことから、この意見は現実的な解決策とはみなされていない。

一条家

一条昭良-一条教輔-一条兼輝と継承された。
しかし、兼輝の跡を鷹司房輔の子(一条兼香)が養子に入って継ぎ、昭良の男系は途絶えた。
なお、昭良の子(醍醐冬基)が分家して醍醐家を興しており、その男系子孫が現存する。
醍醐家からは、明治になって、大日本帝国海軍の軍人となり潜水艦の専門家として名を馳せ中将にまで昇進した醍醐忠重が出た。

鷹司家

鷹司輔平-鷹司政煕-鷹司政通-鷹司輔煕と継承され、輔煕の跡を九条家九条尚忠の子(鷹司煕道)が継ぎ、男系は途絶えた。
しかし、輔平の子(徳大寺実堅)と政通の子(徳大寺公純)が相次いで徳大寺家を相続し、さらに彼らの子孫が多数の華族を相続している。
明治から大正にかけて2度にわたり内閣総理大臣を務め、退任後元老に列せられた西園寺公望は公純の子である。

[English Translation]