皇国史観 (Kokokushikan)
皇国史観(こうこくしかん)は、日本国と日本人は歴代天皇を中心とした国造りが行われ、現代までに到る伝承と歴史が紡がれ継承されて来たとする歴史観。
第二次世界大戦以前
南北朝時代に南朝の北畠親房が南朝の正統性を示すために著した『神皇正統記』が先駆的なものであり、江戸時代に展開した水戸学や国学でその基礎が作られた。
幕末の尊王攘夷運動の過程で強化され、明治維新後には政治体制によって正統な歴史観として確立した。
しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。
また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。
このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと機を一つにする。
その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。
世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には早稲田大学教授津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。
一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。
19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を皇国史観によって記述していた。
(国定教科書)
南北朝正閏論
1911年(明治44年)、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡以後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。
文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。
これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。
現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。
しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では南朝を正統と唱えていた。
また幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。
南北朝正閏論以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。
第二次世界大戦後
戦後、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。
これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。
これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、従来の価値観である皇国史観も衰退することとなった。
肯定的意見
『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達は新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)を作った。
戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の伝統ある歴史を貶める「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。
2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。
これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。
否定的意見
永原慶二『皇国史観』(岩波ブックレット・1983年)は皇国史観を超国家主義の国家政策の一環とし、「周到な国家的スケールのもとに創出されたいわば国定の虚偽観念の体系」としている。
つくる会など保守派について自慰史観または歴史修正主義とする立場から、神話と史実とを峻別せず、天皇や国家へ無批判であるとして「皇国史観の復活」だと批判する声もある。