草壁皇子 (Prince Kusakabe)
草壁皇子(くさかべのみこ(おうじ)、天智天皇元年(662年) - 持統天皇3年4月13日 (旧暦)(689年5月7日)は、天武天皇と皇后鸕野讃良皇女(持統天皇)の皇子。
妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪(あへ)皇女(後の元明天皇)。
元正天皇・吉備内親王(後の長屋王妃)・文武天皇の父。
諡号は岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと、または、おかのみやぎょうてんのう)。
岡宮天皇あるいは長岡天皇とも称される。
生涯
天智天皇元年(662年)に誕生。
天武天皇元年(672年)、壬申の乱が勃発すると、大津皇子ら、他の兄弟達と共に両親に同伴する。
天武天皇2年(673年)、2月27日に飛鳥浄御原宮で天武天皇が即位。
天武天皇8年(679年)には吉野の盟約で事実上の後継者となり、天武天皇10年(681年)、2月に皇太子。
おそらく、母の鵜野讃良皇后の身分の高さと、既に彼女の姉の大田皇女が死去している事から、大津皇子を押さえ、皇太子になったものと思われる。
朱鳥元年(686年)7月には重態に陥った天武天皇から母と共に大権を委任され、9月には天武天皇が崩御する。
翌月には謀反の罪で大津皇子が処刑される。
だが、鵜野讃良皇后は皇子を直ちに即位させる事はしなかった。
皇子の若さと大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。
持統天皇3年(689年)4月13日に皇位に就くことなく薨去。
淳仁天皇即位後の天平宝字2年(758年)に「岡宮御宇天皇」の称号が贈られた。
万葉集に、石川内命婦に贈った歌が一首残されている。
陵は、奈良県高市郡高取町の眞弓丘陵である。
早世した草壁皇子だが、両親・妻・息子・娘と近親者(さらに次女・吉備内親王の夫、長屋王も実際は特例として親王待遇を受け、皇位継承権があったとの説が指摘されている)の殆どが皇位につき、彼の子孫達は天武系の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。
しかし、男系は744年(天平16年)の曾孫・安積親王の早世(藤原仲麻呂による暗殺説あり)で途絶えてしまった。
女系については、曾孫の不破内親王と塩焼王(草壁皇子の甥)との間に生まれた氷上川継(草壁皇子の玄孫)も、天智系の桓武天皇が即位した直後に謀反の疑いを受け、弟の氷上志計志麻呂とともの流刑となった(氷上川継の乱)。
その後、桓武天皇崩御後に許され帰京した。
しかし、伊豆守に任じられた812年(弘仁3年)を最後に消息が途絶える事となる。
不破内親王の姉の井上内親王(聖武天皇の娘)と白壁王(後の光仁天皇)との間の子である他戸親王(草壁皇子の玄孫)が、伯母の孝謙天皇称徳天皇が崩御に伴い、父王が即位した時に天智・天武皇統融合の象徴として立太子された。
しかしながら、他戸親王の立太子に反対していた藤原式家の藤原良継・藤原百川兄弟の陰謀に遭い、光仁天皇を呪ったとして庶人に落とされ、母共々変死した。
他戸親王の姉の酒人内親王は桓武天皇の妃となり、朝原内親王(平城天皇の妃)を儲けたが、彼女は子を成さなかったのでここで断絶した。
臣籍降下した中では承和 (日本)11年(844年)に玄孫の峯緒王(吉備内親王の曾孫)が高階真人姓を賜り高階氏の祖となった。
しかし彼の孫の高階師尚で養子に変わっているため、その系統は断絶した。