藤原璋子 (FUJIWARA no Shoshi)
藤原 璋子(ふじわら の しょうし/たまこ、康和3年(1101年) - 久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安時代後期の国母。
第74代鳥羽天皇の中宮で、第75代崇徳天皇・第77代後白河天皇両天皇の母。
女院号待賢門院(たいけんもんいん)。
系譜
閑院流藤原氏の出身。
父は正二位権大納言藤原公実(1053年 - 1107年)、母は左中弁藤原隆方の女で堀河天皇・鳥羽両代の御乳母・光子。
太政大臣三条実行(三条家祖)は異母兄、中納言西園寺通季(西園寺家祖)・左大臣徳大寺実能(徳大寺家祖)・大炊御門経実室藤原公子(二条天皇の外祖母)らは同母兄姉。
略歴
七歳にして父を失い、時の治天の君白河院(第72代白河天皇)とその寵姫・祇園女御に養われた。
長じて摂関家の嫡男藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に噂があったため忠通の父藤原忠実は固辞し、白河院の不興を買った。
永久5年(1117年)12月13日、白河院を代父として、父方の従弟鳥羽天皇に入内、4日後には女御の宣旨を蒙った。
1ヶ月ばかり経った翌元永元年(1118年)正月26日、立后され中宮を号す。
翌2年(1119年)5月28日、第一皇子顕仁親王(第75代崇徳天皇)を出産。
その後、斎院禧子内親王や、通仁親王・君仁親王を産むが、この両親王は生来障害児であった。
統子内親王(上西門院)の年子として、大治2年(1127年)9月11日、第四皇子雅仁親王(第77代後白河天皇)を出産し、2年後には末子本仁親王(入道して仁和寺に入り、覚性入道親王と号す)も生まれた。
保安4年(1123年)正月28日、白河院は5歳になった顕仁親王を践祚させ、璋子も翌天治元年(1124年)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称した。
このように璋子は鳥羽天皇との間に五男二女を儲け、熊野詣にも同行しているが、それは白河院の在世中であればこそだったという。
本仁親王の生まれた年、大治4年(1129年)7月7日、「幼主三代の政を執」った77歳の白河法皇が崩御し、これを機にして待賢門院の人生は暗転する。
鳥羽院が治天を継承し廷臣を統率、後ろ盾を持たぬ幼帝崇徳は孤立した。
鳥羽院は白河院によって関白を罷免され逼塞していた忠実を起用し、その娘藤原泰子(高陽院)を皇后に立てたばかりでなく、待賢門院に代わって藤原得子(美福門院)を寵愛したのである。
保延5年(1139年)8月17日、鳥羽院は得子が生んだ生後三ヶ月の第八皇子躰仁親王を立太子させ、2年後の永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇から皇位を譲り受けさせた(近衛天皇)。
ところが、近衛天皇即位・得子の皇后冊立と相前後して得子を標的にしたと考えられる呪詛事件(日吉社呪詛事件・広田社巫呪詛事件)が相次いで発覚し、息子が皇位を失った待賢門院が裏で糸を引いているという風説が流されるようになる。
また、このころから璋子が鳥羽天皇の第一子として生んだ崇徳天皇は、白河法皇の胤だとする風説が囁かれるようになる(『古事談』など)。
こうして権勢を失った待賢門院は、翌康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾。
3年後、久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩じた。
没後10年目の久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が17歳で夭折し、図らずも璋子の生んだ四宮雅仁親王が天皇に指名された(後白河天皇)。
璋子の長子崇徳上皇はこれを不服とし、やがて源平の武士が召集され、保元の乱を蜂起するが、もはや璋子には遠い話であった。
備考
京都市右京区花園扇野町に現存する法金剛院は、平安前期、右大臣清原夏野の山荘だったものを死後双丘寺とし、天安2年(858年)文徳天皇の勅願によって天安寺が建立されたが、その後荒廃し、大治5年(1130年)になって待賢門院が復興したものである。
女院はここで晩年を過ごし、今も、法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵に眠る。
絶代の美貌を謳われ、信仰心も深かった女院を慕い、法金剛院を訪れる人々の中には、かの歌僧西行もいたという。
女院に仕えて出家の供をした待賢門院堀河(村上源氏、神祇伯顕仲の女)は、『百人一首』に歌を採られるなど、歌人として名高い。