託基皇女 (Taki no himemiko (Princess Taki))
託基皇女(たきのひめみこ 686年以前? - 天平勝宝3年1月25日 (旧暦)(751年2月25日))は、飛鳥時代・奈良時代の皇族。
天武天皇の皇女で、母は宍人臣大麻呂の娘、かじ媛娘。
斎宮。
多紀・当耆皇女とも、大宝律令施行後は多紀・当耆内親王とも記述される。
志貴皇子の正妃となり春日王を生む。
天武15年(686年)4月27日、父天皇の病平癒祈願のため大蕤娘らと一緒に伊勢神宮に遣わされる。
文武2年(698年)9月10日、伊勢斎宮にト定され伊勢へ下向する。
斎王制度は大伯皇女が朱鳥元年(686年)に退下したあと途絶えており、12年ぶりの卜定だった。
文武5年(701年)2月、突如新たに泉皇女が斎王に卜定され、当耆皇女は退下した。
再び慶雲3年(706年)12月6日に伊勢神宮に遣わされている。
志貴皇子とは斎宮退下後に結婚したものと思われる。
霊亀2年(716年)夫 志貴皇子の死別後、天平9年(737年)2月14日三品、天平勝宝元年(749年)4月14日一品に昇進。
奈良時代を通じて内親王で一品に昇進したのは彼女と元正天皇の2人だけである(以後、貞観 (日本)19年(877年)の儀子内親王が叙されるまで内親王の一品叙位の例は無い)。
これは当時既に天武天皇の子女の中で彼女が最後の生存者になっていたために格別な敬意が払われたものとされている。
慶雲2年(705年)4月11日兄忍壁皇子が、天平13年(741年)3月28日姉泊瀬部皇女が死亡するが、天武天皇の子女の中ではもっとも長生きし、当耆皇女自身は天平勝宝3年(751年)1月25日に死亡した。