鳥羽離宮 (Toba Rikyu (Toba Imperial villa))

鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の太上天皇により使用されていた院御所。
鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる。

場所は、京都市南区 (京都市)上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近にあった。
敷地面積は180万平方メートル。

概要

鳥羽_(京都市)は、平安京の南約3kmに位置し、鴨川 (淀川水系)と桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝であった。
平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。
また、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名であった。
このため古くから、鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び、市が立つなど、都市として発達していた。

11世紀、院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河天皇に献上した。
白河上皇は大規模な拡張工事を行った。
後の南殿である。
さらに東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重の塔を中心とした安楽寿院を造営する。
12世紀の鳥羽天皇の代には泉殿をはじめとして増設が繰り返された。
鳥羽上皇も安楽寿院に本御塔と新御塔の2つの塔を造営し、本御塔を自らの墓所と定めた。
新御塔は美福門院の墓所を予定していたが、近衛天皇が葬られた。
これらの造営、作事には各地の受領に任ぜられた院の近臣達が分担してあたっている。
このように、院政期には鳥羽は経済、物流の拠点としてだけではなく、政治の中心地ともなった。

また、治承三年の政変の際に平清盛の命令によって後白河天皇が幽閉されたことでも知られている。
南北朝時代 の戦火によって、多くの建物が焼失し、その後急速に荒廃していった。

鳥羽離宮は、南殿・泉殿・北殿・馬場殿・東殿・田中殿などからなる。

それぞれの御所には、御堂が付属していた。

南殿-証金剛院(白河上皇の発願)
泉殿-成菩提院(鳥羽上皇の発願)
北殿-勝光明院(鳥羽上皇)
東殿-安楽寿院(鳥羽上皇)
田中殿-金剛心院(鳥羽上皇)

なお、天台宗の高僧であった覚猷は、鳥羽離宮の証金剛院に住んだことから、鳥羽僧正と称された。

[English Translation]