しゅ子内親王 (Imperial Princess Shushi (Yoshiko))
姝子内親王(しゅし(よしこ)ないしんのう、永治元年11月8日 (1141年12月7日) - 安元2年6月13日 (1176年7月20日))は、二条天皇の中宮。
女院(高松院)。
初名は寿子。
鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院藤原得子(藤原長実女)。
同母兄弟に近衛天皇・叡子内親王・あき子内親王(八条院)がいた。
幼名は乙姫宮。
永治元年(1141年)11月六条第で生まれ、母の里邸である白河押小路殿で成長した。
久安2年(1146年)袴着。
久寿元年(1154年)8月、内親王宣下を受ける。
保元元年(1156年)皇太子守仁親王(後の二条天皇、美福門院養子)の妃となる。
翌年の保元2年(1157年)准三宮になる。
二条天皇が即位した翌年の平治元年(1159年)中宮に冊立された。
同年起こった平治の乱に際しては、天皇と共に平清盛の六波羅第に遷幸した。
永暦元年(1160年)病のため出家した。
応保2年(1162年)女院号を宣下され、立后を行った高松殿に因んで高松院と号した。
安元2年(1176年)6月、脚気に痢病を併発して崩御した。
36歳だった。
二条天皇との間に子供はなく、大僧都尊恵を猶子にした。
しかし一方では法印大僧都済憲と密通して海恵を儲けたという噂が、内親王の生前から公然の秘密として語られていたという。
(『玉葉』)