一条天皇 (Emperor Ichijo)
一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は第66代天皇。
在位は寛和2年(986年)6月23日 - 寛弘8年(1011年)6月13日。
名は懐仁(やすひと/かねひと)。
系譜
円融天皇の第1皇子。
母は藤原兼家の娘、藤原詮子。
兄弟姉妹はいない。
系図
略歴
永観2年(984年)、花山天皇の時、皇太子に立てられる。
寛和2年(986)6月23日(8月1日)、花山天皇が内裏を抜け出して出家してしまったために、数え年7歳で即位した(孫の早期即位を狙った兼家の陰謀と言われる)。
皇太子には冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任した(のちに関白)。
兼家の死後は長男の藤原道隆が引き続き外戚として摂政・関白を務め、一条天皇の中宮に娘の藤原定子(ていし)を入れるが、長徳元年(995年)に病没。
代わりに弟の藤原道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子藤原伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟藤原道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。
道長は先に中宮であった定子を皇后とし、娘の藤原彰子(しょうし)を中宮に立てて、一帝二后の先例を開いた。
一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。
天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。
音楽にも堪能で、笛を能くしたという。
また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。
また、天皇が道長を関白とせずに内覧に留めたのは、天皇自身が長ずるにつれ、曽祖父の醍醐天皇・祖父の村上天皇のように、摂政関白を置かずに親政する事を志したのと、道長自身も、当時閣議に出られない決まりがある摂政関白よりも、内覧を兼ねたまま一上(閣員の首座)として実権を掌握しようとした事が一致した為で、これにより、後に大江匡房が『続本朝往生伝』で藤原実資や藤原行成等の有能な人材を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立した。
その一方で、鎌倉時代初期に書かれた道長の6代目の子孫にあたる慈円の著した『愚管抄』によれば、天皇の死後道長は天皇の遺品の中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、これを「道長の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという一件がある。
これは摂関家にとっては不都合な事実であるが、慈円は事実関係そのものは否定せずに、天皇の認識不足を激しく責めて道長の忠節を称えている。
また、これと似たような話は同時期に書かれた『古事談』にも記載されていることや晩年に次期東宮に定子が生んだ敦康親王を望みながらこれを阻まれたことが『権記』に記されている。
この話は実話かそれに近い出来事があり、天皇と道長の関係が必ずしも順調に行っていなかったのではと見る説もある。
諡号・追号・異名
在位中の里内裏(臨時の皇居)の名称により「一条院」と追号された(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には諡号とは異なる)。
明治以後、「院」の号は廃止され、「一条天皇」とされる。
在位中の元号
寛和
永延
永祚
正暦
長徳
長保
寛弘
陵墓・霊廟
京都市右京区竜安寺にある円融寺北陵(えんゆうじのきたのみささぎ)に葬られる。
天皇は生前、父円融院の隣に土葬されることを望んだが、道長は故院を荼毘に付してからそのことを思い出し、御骨を円融寺に納めたという。
また全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。