三条天皇 (Emperor Sanjo)

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代の天皇。
諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。
享年42。
在位は寛弘8年(1011年)6月13日から長和5年(1016年)1月29日まで。

系譜
冷泉天皇の第二皇子に生まれ、母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇后宮藤原超子。
花山天皇の異母弟。

七歳で母を失い、父冷泉上皇は精神病を患っていたため、その後見は薄弱であった。
外祖父兼家に容姿が酷似して立派であったといい、兼家の鍾愛を受けて育ったことが『大鏡』に見える。

略歴
冷泉・円融天皇両系の迭立に基づく立太子であったが、東宮の方が天皇より4歳年上の11歳であったため、「さかさの儲けの君」といわれた。

外舅にあたる藤原道隆・藤原道兼・藤原道長三兄弟が先後して政権を掌握し、それぞれ一条天皇のもとで後宮政策を布いたため、三条天皇は25年という長い東宮時代を経て、36歳でようやく一条帝の譲りを受けて即位。
皇太子には藤原道長女藤原彰子腹の敦成親王(後一条天皇)が立った。

外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠き、かつ三条天皇が納れた道長の次女・中宮藤原妍子が両者の期待を裏切って女児を生んだこともあり、道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。
病状の悪化もあり、三条天皇は第一皇子小一条院の立太子を条件に、道長の勧めに従い退位した。
翌寛仁元年(1017)4月に出家し、程なく42歳で没した。

三条天皇の死後、その長子敦明親王は道長に無言の圧迫を掛けられ、ついに自ら東宮を辞退する挙に出た。
このことにより冷泉・円融両系の迭立に終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰したが、三条天皇の血統もまた皇女禎子内親王を通じて以後の天皇家へ受け継がれていくことになる。

退位の際に詠んだとされる歌が百人一首に採られている。

心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 三条院

諡号・追号・異名
後院(譲位後の居所)の名称によって「三条院」と追号された。
大正以後、「院」の号は廃止され、「三条天皇」とされる。

在位中の元号

寛弘:(1011年6月13日) - 1012年12月25日

長和:1012年12月25日 - (1016年1月29日)

陵墓・霊廟
陵墓は京都市北区衣笠西尊上院町にある北山陵(きたやまのみささぎ)。

[English Translation]