仁明天皇 (Emperor Nimmyo)
仁明天皇(にんみょうてんのう 弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日) 在位 天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。
名は正良(まさら)親王。
略歴
天長10年(833年)3月6日、叔父に当たる淳和天皇の譲りを受けて即位。
当初、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てたが、承和9年(842年)の承和の変により、恒貞は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子道康親王が立太子した。
これには自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、それを利用して甥である道康を立太子させたい藤原良房の陰謀があったと言われている。
嘉祥3年(850年)3月19日に病にかかり、文徳天皇に譲位。
同年3月21日に崩御。
天皇は幼少時から病弱であったとされ、『続日本後紀』には7歳の頃からの様々な病歴が記載され、即位後もしばしば薬(丹薬・石薬)の調薬をして医師並みの知識を有していたとされる。
また、『三代実録』の藤原良相の死去の記事では良相ら側近に自分が作成した薬の試飲を命じたとされている。
江戸時代の儒学者・頼山陽は、天皇が恒貞親王が度々皇太子を辞退した際には受け付けず、事件にかこつけてこれを廃して自分の実子を立てたことを厳しく非難している(『日本政記』)。
異名
御陵の在所を以って深草帝(ふかくさのみかど)と呼ばれた。
和風諡号は「日本根子天璽豊聡慧尊」(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。
和風諡号を奉贈された最後の天皇である。
在位中の元号
天長
承和834年 - 847年
嘉祥 848年 - 850年
陵墓・霊廟
深草陵(ふかくさのみささぎ 京都市伏見区深草東伊達町)に葬られた。