伊予親王 (Imperial Prince Iyo)
伊予親王(いよしんのう・伊豫親王、生年不詳 - 大同 (日本)2年11月12日 (旧暦)(807年12月18日))は、桓武天皇の第3皇子(異説あり)といわれた。
母は藤原南家藤原是公の娘藤原吉子。
略伝
806年(大同元年)、中務卿兼大宰帥に任ぜられる。
しかし、翌807年(大同2年)、反逆の首謀者であるとして母藤原吉子とともに川原寺(弘福寺)に幽閉された。
そして絶食した後毒を飲んで自害した。
異母兄平城天皇の側近であった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に失脚させられたものとされる。
(伊予親王の変)
後に親王の無実が判明し、839年に一品が追贈された。
子孫
伊予親王には3人の王子女があったが、親王が自害した後、いずれも遠流となっていた。
その後親王の無実が判明すると、嵯峨天皇により平安京に呼び戻され、没収されていた親王の資産も王子女に返還された。
このうち第2王子の高枝王(802年(延暦21)~858年(天安2))は826年(天長3)に従四位下に直叙された後、因幡国や大舍人頭を務めた。
854年(仁寿4)には従三位に昇叙。
更に大蔵省律令制における大蔵省・宮内省などを歴任した。
伊予国の伊予橘氏や越智氏の祖とされる藤原為世(浮穴四郎)は伊予親王の子である。
嵯峨天皇が勅して皇子に準じられ、藤原の姓を受けた、という説がある。