保明親王 (Imperial Prince Yasuakira)
保明親王(やすあきらしんのう;延喜3年11月20日(903年12月16日) - 延喜23年3月21日(923年4月14日))は平安時代の皇族。
醍醐天皇の第二皇子で、母は藤原穏子(藤原基経の娘、藤原時平の妹)。
初名は崇象。
皇太子となるが僅か21歳で薨去した。
親王の薨去は菅原道真の祟りとの風評も立った。
諡は文献彦太子。
朱雀天皇、村上天皇の同母兄。
延喜4年(904年)に2歳で立太子、東宮となる。
これは、叔父藤原時平の思惑があり、時平の娘は既に宇多天皇に入内し女御となっていたがなかなか皇子を生まず、そんな時に生まれた保明親王を即位させることで政治の実権を握ろうとしていた。
しかし、延喜9年(909年)、親王の即位を見ず時平が没する。
延喜11年(911年)11月28日改名し保明となる。
親王の乳母の子で歌人の大輔を寵愛するが、親王は即位することなく夭逝。
享年21。
薨去後、第一王子の慶頼王が皇太子に立てられるが、2年後僅か5歳で薨去し、王の代わりに親王の弟、寛明親王(朱雀天皇)が皇太子となる。
親王は母が藤原時平の妹、妃が娘であった為時平と繋がりが深く、人々は親王と慶頼王の薨去は時平が追いやった菅原道真の祟りとする風評が立った。
これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄するが台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、延長8年(930年)6月内裏の清涼殿に落雷し複数の死者が出た。
天皇はこれを見て病に臥し3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御する。