光仁天皇 (Emperor Konin)

光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日 (旧暦)(709年11月18日) - 天応 (日本)元年12月23日 (旧暦)(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日 (旧暦)(770年10月23日) - 天応 (日本)元年4月3日 (旧暦)(781年4月30日))。

概要
天智天皇の第7皇子・志貴皇子(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。
母は紀橡姫。
8歳で父が死亡したためか、初叙が29歳(従四位下)と大変遅かった。
その後天平16年(744年)聖武天皇の皇女・井上内親王(いのえのひめみこ)を妃としたことからにわかに昇進が早くなり、天平宝字6年(762年)に中納言となり、藤原仲麻呂の乱の鎮圧に功績を挙げて孝謙天皇称徳天皇の信任を受けて天平神護2年(766年)には大納言に昇進した。
だが、度重なる政変で多くの親王・王_(皇族)が粛清されていったために専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装っていたといわれている。

神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御した。
独身の女帝に後継者はなく、度重なる政変による粛清劇によって天武天皇の子孫たる皇族がなかったため、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議藤原宿奈麻呂、同藤原縄麻呂、同石上宅嗣、近衛府藤原蔵下麻呂らによる協議が行われ、その結果を受けて、62歳で即位することとなった。
白壁王と井上内親王の間には他戸親王と酒人内親王が生まれており、特に、他戸王は女系ではあるものの天武天皇系男性皇族の最後の一人であるということから、その父親である白壁王が次期皇位継承者として推挙されたと考えられている。
62歳で即位と言うのは継体天皇(第26代)以降では現在の今上天皇を含め最高齢である。
(ちなみに光仁天皇に次いで高齢で即位した天皇は125代今上天皇である)

即位後、井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、宝亀3年(772年)井上内親王を呪詛による大逆を図ったとして罪し皇后を廃し、皇太子の他戸親王も廃した。
井上内親王は翌年、天皇の同母姉難波内親王を呪ったとして幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王もともに幽閉されてやがて二人とも変死した。
これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。
翌宝亀4年(773年)高野新笠から生まれた山部親王を立てて皇太子とした。
のちの桓武天皇である。
この背景には山部親王とそれを擁立する藤原家の陰謀があったと目される。

70歳を超えても政務に精励したが、天応元年(781年)2月第一皇女能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月、病を理由に皇太子に譲位。
同年12月23日、崩御。

[English Translation]