兼明親王 (Imperial Prince Kaneakira)
兼明親王(かねあきらしんのう、延喜14年(914年) - 永延元年(987年))は平安時代の皇族。
醍醐天皇の第十六皇子で母は藤原菅根の娘藤原淑姫。
朱雀天皇、村上天皇、源高明の異母兄弟。
一時期臣籍降下して、源 兼明(みなもと の かねあきら)と名乗る。
博学多才で前中書王と呼ばれ甥の後中書王・具平親王と共にに並び称される。
官位は一品中務卿。
御子左大臣とも。
藤原佐理、藤原行成と共に三蹟の一人として数える場合もある。
人物
承平2年(932年)、源姓を賜り臣籍降下し、初叙従四位上。
その後播磨権守・右近衛中将・左近衛中将等を経て、天慶7年(944年)、参議。
その後も順調に累進し権中納言、中納言、従二位大納言を歴任する。
天禄2年(971年)には左大臣となる。
貞元2年(977年)、源昭平を名乗っていた昭平親王とともに勅により親王に復し、57年ぶりに皇籍に復帰。
二品中務卿に任じられる。
寛和2年(986年)、中務卿を辞し、その後は嵯峨に隠棲する。
『江談抄』『本朝文粋』に詩文を残す。
勅撰和歌集入集は後拾遺和歌集の1首のみ。
『古今和歌六帖』の撰者に有力視されている。
寛和2年(986年)兼明親王が嵯峨野の亀山に山荘(雄倉殿)造営の際清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈って霊泉を得られたことが『本朝文粋』に記されている。
後に亀山には後嵯峨上皇が仙洞亀山殿を造営した。
親王の別称に御子左大臣・御子左があるが、これは『醍醐天皇の皇子(御子)である左大臣』という意味。
後世、親王の邸宅に藤原長家が住したため家号となり御子左家となった。
長家を御子左大納言という。
兼明親王が皇族に復帰させられたのは、藤原兼通・藤原兼家兄弟の争いに関係している。
兼通は、弟兼家に一時期廟堂の席次を先んじられたことを深く恨みに思い、自らが関白内大臣になった際、兼家を大納言に据えおき、従兄弟にあたる藤原頼忠を相談相手とした。
そして頼忠を左大臣に引き上げるため、当時その座にあった兼明親王がとばっちりを受けたのである。
親王の歌
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞあやしき (後拾遺和歌集1154)
太田道灌のエピソードとしても知られる
この歌を題材に取った古典落語の演目に「道灌」というものがある