十市皇女 (Tochi no Himemiko (also pronounced Toichi no Himemiko))

十市皇女(とおちのひめみこ、653年(白雉4年)? (大化4年(648年)説も) - 天武天皇7年4月7日 (旧暦)(678年5月3日))天武天皇の第一皇女(母は額田王)、大友皇子(弘文天皇)の正妃。

壬申の乱以前

天智天皇の皇子の大友皇子(弘文天皇)の正妃となり、天智天皇8年(669年)頃?葛野王を産む。
しかし、天武天皇元年(672年)に起こった壬申の乱では、父と夫が戦うという事態になってしまう。
『扶桑略記』『水鏡』『宇治拾遺物語』ではこの際彼女が父である大海人皇子に情報を流したとされる。
『宇治拾遺物語』(巻15・1)の「鮒の包み焼きに密書を隠した」という逸話がある。
しかし、鮒の包み焼きが近江の名物であったことや、話の最後に登場する高階氏が高市皇子の後裔であることから、スパイ説は後世の人間による創作の可能性が極めて高い。

壬申の乱以後

父(天武天皇)の元に身を寄せたと思われる(『万葉集』から高市の正妃となったとする説もある)が、敗北した近江側の実質的な皇后として、また天皇の皇女として依然として大変複雑な辛い立場にあったことは疑いない。

彼女の動静はほとんど記録が残っていないが、天武天皇4年(675年)の2月13日 (旧暦)、元明天皇とともに伊勢神宮に参詣したとある。
ここで十市皇女が阿閉皇女とともに伊勢を訪れた目的としては、次の3説を含む諸説がある。
単に壬申の乱の戦勝を伊勢神宮に報告する目的であるという説。
日本書紀に天武天皇4年(675年)1月に薬や貴重な品が朝廷に献上された記録があることから、それらを伊勢神宮に持参するために彼女らが派遣されたという説。
天武天皇が壬申の乱で大友皇子を破って即位し、自分の子の草壁皇子を皇太子としたことから、皇太子の交代をそれぞれの妃に伊勢神宮に報告させたという説。
なおこの際『万葉集』卷1に吹芡刀自(ふふきのとじ:侍女と思われる)が十市の歌を作ったとある。
また前年の10月にも十市皇女が伊勢に赴いたという説もある。
ちょうどそのころ大来皇女が伊勢斎宮となり伊勢へ群行したと日本書紀に書かれていることから、これに同行した可能性がある。

その後未亡人であったにも関わらず泊瀬倉梯宮の斎宮となることが決定するが、天武天皇7年(678年)、まさに出立の当日4月7日朝に急死。
日本書紀には「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されており、14日に大和の赤穂の地に葬られた。
この際父の天武天皇が声を出して泣いたという。

そもそも何故未亡人であり出産も経験した彼女が、未婚の女性(=処女)でなくてはならない斎宮に選ばれたのか。
これについて乱後7年経ち大友の喪が明けることと関係があると見なす見方もある。
死亡時、十市皇女はまだ30歳前後でありこの不審な急死に対しては、自殺説・暗殺説もある。

彼女の死を悼んで高市皇子が熱烈な挽歌を捧げている(『万葉集』卷2)。
このことから、夫、大友皇子との不仲説や、高市皇子との恋人説・夫婦説がある。
(一方で高市皇子の片思いという説もあり)

十市皇女の被葬地

日本書紀によれば、十市皇女のなきがらは天武天皇7年(678年)4月14日に赤穂に葬られたとあるが、赤穂という地名が奈良県内のどこにあたるかという解釈には諸説あり、いまだ定説は明らかになっていない。

新薬師寺(奈良市高畑町)の隣にある鏡神社の比売塚は「高貴の姫君の墓」として語り伝えられており、ここに十市皇女が埋葬されているという説が有力である。

奈良盆地西辺の馬見丘陵東麓にある広瀬郡(奈良県北葛城郡広陵町)の「赤部」という場所に「赤穂墓」があり、これを十市皇女の墓であるとしている。

天武・持統陵、中尾山古墳から高松塚古墳、文武天皇陵までを含む檜隈の大内・安古とよばれる一帯がある。
その安古が「赤穂」に通じることから、このあたりに十市皇女の墓を想定している説もある。

奈良県桜井市の赤尾が「赤穂」であるとし、その近辺にある鳥見山山麓古墳群に唯一ある方墳か、又は舞谷古墳群の2号墳ではないかという説もある。

十市皇女に関する神社・伝承など

十市皇女が埋葬されていると伝えられている比売塚に、1981年に「比売神社 (奈良市)」が建てられ、現在もそこに祀られている。
縁結びの神として遠方からの参拝客も多い。
また比売塚の近所に赤穂神社があり、これを比売塚の拝殿であると考える人もいる。

筒森神社(千葉県夷隅郡大多喜町)は十市皇女を祀っている。
壬申の乱に敗れた大友皇子に従って東国へ落ちのびた十市皇女はその時妊娠中だった。
山を分け入りこの地まで辿りついたが難産(流産)の末亡くなった。
哀れに思った里人の手で手厚く霊を弔いここに社を建てたとされ、安産の神とされている。

法興寺(千葉県いすみ市岬町岩熊)の伽藍跡の近くに「殿塚姫塚」と呼ばれる古墳がある。
殿塚の方は高市皇子を祀ったものといわれていることから、もう一つの姫塚のほうに十市皇女が祀られていると考える人もいる。

千葉県木更津市近辺にも、十市皇女やその子らの墓といわれるものが残っている。

新宮神社(高知県南国市)には十市皇女の伝承が残っているというが、その伝承は秘められ続けている。

156番の歌の「巳具耳矣自得見監乍共」の訓読として、「去年(こぞ)のみを我と見えつつ(去年ばかりは私と逢ったが、共に寝ない夜が多い)」(全註釈)「夢にのみ見えつつもとな(亡くなった人の姿が夢にばかり見えて、共に寝なくなった夜が多い)」(私注)「夢にだに見むとすれども(「夢にのみ~」と同じ意味)」(古典大系本)などが挙げられているが、未だ定説をみるには至っていない。
ただ、万葉仮名の「共」を逆説の確定条件を示す接続助詞「ども」や「とも」として用いる例はないので、上のいずれの読み方であっても「ともに寝る」という解釈がされている。
これを高市皇子との間に恋愛関係(肉体関係)があった根拠とする見方が多い。

十市皇女自作の歌は、正式には一首も残されていないが自作の歌が伝わる地方がある。
伊勢下向の途上、波多神社(三重県津市)に参詣したときに十市皇女が詠んだ歌として「霰降りいたも風吹き寒き夜や旗野にこよひわがひとり寝む」という歌がこの神社の伝承として伝えられている。

[English Translation]