吉子女王 (Princess Yoshiko)
吉子女王(よしこじょおう、文化 (元号)元年9月25日 (旧暦)(1804年10月28日) - 明治26年(1893年)1月27日)は、幕末から明治時代の皇族出身女性。
有栖川宮織仁親王の九女。
生母は側室の安藤清子。
水戸藩主・徳川斉昭正室(御簾中)となる。
幼称は登美宮(とみのみや)。
院号は貞芳院。
水戸藩伝統の儒教に則り、没後文明夫人と諡される。
生涯
27歳のとき、当時としては結婚適齢期を遥かに過ぎた年齢になってから徳川斉昭との婚約がまとまり、江戸に降嫁。
この婚約は姉・楽宮喬子女王の肝入りで決まったと言われる。
また、婚約の勅許を下した仁孝天皇は、「水戸は先代以来、政教能く行われ、世々勤王の志厚しとかや、宮の為には良縁なるべし」と満足したといわれる。
斉昭との間に長男・徳川慶篤、七男・徳川慶喜を儲ける。
他に男子1名女子1名を儲けたが夭折している。
艶福家の夫によく仕え、庶子の教育にも目を配り「賢夫人」としての名声が生前より高かった。
万延元年(1860年)に幽閉中の夫・斉昭が死去すると、直ちに落飾、「貞芳院」と名乗る。
しかし、12代将軍徳川家慶の正室の妹であり、宮家出身の彼女の動向は井伊直弼をはじめとする「南紀派」の幕府首脳には恐れられていたらしい。
病弱だったといわれる長男・慶篤の後見を務め、夫の遺志であった慶喜の将軍擁立に尽力したと言われる。
しかし、慶篤は藩内の混乱による心労で早世、皮肉にも慶喜は最後の将軍となり、実家の有栖川宮熾仁親王に追討される身の上となる。
明治維新後は、若死にした慶篤の跡を嗣いだ徳川昭武の世話となり、余生を送った。
別家に養子に出た慶喜との同居は武家社会の慣習上出来なかったが、親しく文通を行い、頻繁に交流していた様子が残っている書簡から伺える。
長命を全うし、明治26年(1893年)に卒去。
享年90。
墓所は水戸藩墓所・瑞龍山(茨城県)。
皇族出身であることを非常に誇りにしていた女性であったらしく、結婚後もしばらくは公家風の「おすべらかし、小袖に袴」姿で生活していたことを示す肖像画が残っている。
また、仕えていた女中達には自分のことを「宮様」と呼ばせ、自らは幼称であった「登美」を名乗っていた。
ちなみに肖像画に添付された斉昭の手紙などから、夫の斉昭は「吉子」と呼んでいたらしい。
家族
父:有栖川宮織仁親王
兄:有栖川宮韶仁親王・梶井宮承眞法親王・輪王寺宮舜仁入道親王・知恩院宮尊超入道親王
姉:喬子女王(江戸幕府12代将軍徳川家慶正室(御台所))
夫:徳川斉昭(第9代水戸藩主)
子:徳川慶篤(第10代水戸藩主)
子:徳川慶喜(一橋家当主、江戸幕府15代将軍)