天皇 (Emperor (Tenno))
天皇および天皇家の御紋である。
後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。
天皇(てんのう)は、日本国憲法において、日本の象徴であり日本国民統合の象徴と定められる地位、もしくはその地位にある個人。
また、皇帝・君主を敬っていう称号(君主号)もしくは諡号。
古代から世襲により受け継がれた日本の君主である。
本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する事柄も扱う。
「天皇」の由来
「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。
古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」から採ったという説。
唐の高宗 (唐)(在位649年-683年)は皇帝ではなく前述の道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。
5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。
はじめて採用されたのは推古朝という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。
しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。
称号の歴史
近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。
伝統的に「てんおう」と訓じられていた。
明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。
歴史的仮名遣いでは「てんわう」と表記する。
国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。
古代
天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内ではヤマト大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。
古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。
律令制での称号
天皇という呼称は律令制(「儀制令」)に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国内外にむけては)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。
死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、謚が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。
配偶者は「皇后」。
自称は「朕」。
臣下からは「至尊」とも称された。
なお、奈良時代、天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているがこれは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。
中世
平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。
「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。
これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。
陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。
また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。
天朝(てんちょう)は天皇王朝をさす言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。
すめらみこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。
また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。
今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。
出家すると法皇とも呼ばれた。
光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。
これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。
明治以降
大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一された。
ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。
そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。
陸海軍の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。
口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。
現在
なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。
宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。
会話における二人称では、前後関係から天皇であるか皇后であるかが明らかな場合に単に陛下と呼ぶことが多い。
三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「お上」「聖上」などの婉曲表現で呼ぶことはまれである。
一部の出版物においては、今上天皇に対して、敬称を用いない三人称に「○○(元号)天皇」(例:「明仁」)という称号を用いる事例が散見される。
しかし、「○○(元号)天皇」はその天皇の崩御後に贈られる諡になるため、本来的にいうならばこうした用法は誤りである。
英語における呼称
英語における天皇を意味する言葉は、原則として大文字の E を用いたEmperor である。
定冠詞(the)を付ける場合もあるが、その場合でも大文字の E という原則は崩れない(固有名詞扱いであるため)。
天皇を言及する際に用いられる尊称は His Majesty であるが、His Imperial Majesty と記すこともあり、また略してH.M. と記す場合もある。
天皇は男性であるため、Her Majesty は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じくH.M. である。
「~天皇陛下」という場合、正式には His Imperial Majesty (the) Emperor の後に名前を記す。
天皇皇后両陛下という場合は、Their Imperial Majesties Emperor and Empress となる。
天皇に対する呼びかけは一般的に Your Imperial Majesty で、「皇帝としての威厳」に対して呼びかけるという形式になる。
なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、His/Her Imperial Highness であるが、この場合はImperial は省略できない。
歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。
朝鮮半島と天皇の呼称
朝鮮半島は長く中国歴代王朝の属国として存在しており、朝鮮半島が属していた中原王朝では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。
そのため朝鮮ではこのように天皇家の皇や帝を称することを認めず「倭王」「日本国王」等の称号を用いたりした。
近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清国の冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、新たに大日本帝国の従属下に入った事によって初めて日本の天皇を皇帝と称した。
その後の日本統治時代の朝鮮では天皇の称号が用いられた。
朝鮮半島独立後は、英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。
その後「天皇」と言う称号が一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。
この原因として韓国の「小中華思想」の他、朝鮮が清国の冊封体制から自立した後、大韓帝国と改称して憚りなく皇帝を称するようになったのに日本により再び「皇帝」から「王」に格下げされたことに対する報復であると指摘する説もある。
最近になって大統領金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたがマスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。
そして次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。
ただし公的な外交儀礼では天皇と言う称号を用いる。
天皇の配偶者の称号
明治維新以前は一般的に側室を認める時代のため、天皇には皇后以外の複数の配偶者がいた。
天皇の配偶者は、出身の家柄に応じて名乗れる称号は決まっていた。
明治維新以降、国民の間では民法の影響で一夫一妻制が浸透したので、皇族や貴族の中においても一夫一妻制が広まった。
ただ、明治天皇には側室がいたため、最初に一夫一妻制を実現した天皇は大正天皇である。
それ以後の天皇、皇族は一夫一妻制に基づき、配偶者は一人である。
明治維新以前
皇后
中宮
女御
更衣 (女官)
夫人※上記の名称が出来る前の配偶者の名称
大正天皇以降
皇后
天皇家の姓氏
天皇や皇族は氏姓および苗字を持たないとされる。
古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。
天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。
このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。
しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王家(天皇家の前進)は、姓を有していたとされている。
5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。
このことから、宋 (南朝)との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている。
また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする考えもあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする見解が支持されている。
大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説が有力となっている。
吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている。
天皇の皇位継承
明治以後の歴代天皇については即位の礼を参照
皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。
諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承、あるいは帝位継承とほぼ同義語である。
天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されていた。
日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。
(日本国憲法第2条)」とある。
その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。
(s皇室典範a1)」とある。
憲法の規定
日本国憲法と大日本帝国憲法での天皇の規定について説明する。
日本国憲法における天皇
現在、天皇については日本国憲法第1章に記されている。
日本国憲法において、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられる。
日本国憲法には元首の規定がなく、天皇の地位について議論がなされているが、公式には日本内外で元首として扱われる。
憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。
大日本帝国憲法における天皇
大日本帝国憲法においては、その大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、大日本帝国憲法第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。
大日本帝国憲法を素直に解釈すると、天皇は大きな権力を持っていたように読める。
しかし、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無かった。
この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの君主と実態においては近しい存在であったという意見もある。
しかし、重要な政治的局面で影響力を行使することもあったため異なるという意見もある。
神道と仏教と天皇
天皇の歴史は神話までに遡ることができる。
現在においても天皇と神道は新嘗祭などで結ばれている。
国事行為だけでなく宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝等「祈り」を行う存在としての天皇も意義深い。
明治から戦争直後までの天皇と神道との関係は「国家神道」、「国体」を参照。
また、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、明治4年までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。
法事は仏式で行われていた。
維新以後は一千年続いた仏式の行事はすべて停止され、「尊牌」と称された天皇や皇族の位牌は京都の泉涌寺にまとめられ、天皇家とは縁切りということになり、仏教とは疎遠となった。
天皇の歴史
天皇は日本の歴史において重要な権威を有していたが、実際に君主として統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べ極端に短く、ほとんどが天皇以外の貴族や武家、官僚などによって統治権は行使されている。
とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。
しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位についていたことが多い。
例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の君主である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。
ただし、外交において有事が発生した際、その権力者たちも朝廷に相談を持ちかけているため、幕府などの武家政権が内外とも全面的に統治権を行使する認識があったかどうかは考慮が必要である(元寇や黒船来航等)。
時にとりわけ大きな力をもった権力者が天皇という地位を廃止、あるいは簒奪を画策したことがあるとされているが、現在までに成功した例はないとされている。
神代と天皇の発祥
天皇家の系図は、『古事記』・『日本書紀』を初めとする史書に基づいて作られ、その起源は紀元前660年に即位した神武天皇、さらにはその始祖であるクニノトコタチなどの神々に始まるとされている。
しかし、日本書紀は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいる。
そのため、天皇家の祖先にまつわる伝承や事績、および初期の天皇の実在については、歴史学的にはその実在性を疑問視されることが多い。
特に欠史八代の天皇については、古代中国の革命思想(讖緯説)に則って天皇家の歴史を水増したのではないかと指摘する否定説が戦後学会では主流である(実在説もある)。
歴史学的に証明できる天皇家の起源は、大和王権の支配者・ヤマト大王(大王)が統治していた古墳時代あたりまでである。
3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、このときに成立した王朝が天皇家の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国の卑弥呼の系統を天皇家の祖先とする説、天皇家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。
倭の五王
中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代 (中国)の宋 (南朝)王朝に朝貢した「倭」の王たちである。
中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。
これら五王は、仁徳天皇・履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定されており(比定には諸説ある)、天皇家の祖先をこれら五王に求める説が有力である。
これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられており、対外的にはこの称号を名乗っていたと推定される。
国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「ヤマト大王」が用いられていたことが判る。
『宋書』には、次のような倭王・武の上表文が引用されている。
「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。
昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。
王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。
わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。
自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。
ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。
そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。
しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。
そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。
いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。
正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。
もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。
みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。」
この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。
例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇・顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もある。
また、仁賢の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇5世の孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳以降の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。
しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が、後代に「万世一系」史観の立場で書かれた『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。
当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。
以降
不安定な基盤にのっていた王統が確立したのが継体の子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。
欽明以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇家を中心とした政府が形成され始めることとなった。
また、この時期、隋の煬帝に対して「天子」と自称したと『隋書』に見える。
このことから、天皇の称号の成立をこの7世紀初頭に求める意見もある。
大化の改新から院政まで
大化の改新以降、中国(唐)の法令体系である律令を導入することにより、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。
それらの試みは旧来の豪族たちの抵抗により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。
特に天武は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。
天皇が現人神とみなされるようになるのは天武の治世からである。
天皇の称号をはじめて使用したのも天武であるとする説が有力である。
なお、天皇号が成立する以前の王号は、倭国王・倭王(外国向け)および治天下大王(国内向け)だったと考えられている。
律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。
主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。
しかし、平安初期の9世紀中後期ごろから、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。
特に858年(天安 (日本)2年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。
このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。
摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。
そのため、藤原北家(摂関家)が天皇家の統治権を代行することが可能となったと考えられる。
また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇家の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。
もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。
このころ、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗り、朝廷の任命した国司を追放し、関東7ヶ国と伊豆国に自分の国司を任命した。
新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。
また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3ヶ月で将門が戦死して新政権は崩壊した。
平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。
そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。
後三条は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。
この説が正しければ、白河院政に先立つ最初の院政ということもできるが、後三条は譲位後半年足らずで死去したのでその真意は謎のままである。
後三条の子息の白河天皇は、子息堀河天皇・孫鳥羽天皇がいずれも幼少で即位し、父・祖父として後見役となる必要があったことから、次第に権力を掌握するようになり、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。
この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。
院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の国王)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人としてふるまった摂関政治よりもいっそう強固なものであった。
治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。
後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。
承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、ときには幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。
院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代 (日本)の後円融天皇までの約250年間とされている。
後円融上皇の死後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手でほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い、朝廷も政府としての機能を失い、天皇を中心とする貴族たち(公家)の利益共同体に転落する。
中世
中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。
荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。
しかし承久の乱(1221年)以降の天皇の権威の失墜は著しく、元寇に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。
武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。
天皇家でも、大覚寺統と持明院統に分裂した。
鎌倉幕府の崩壊後、一時建武の新政が行われた。
しかしその後の内乱を通じて南北朝時代 (日本)が並立し、足利将軍家方の北朝_(日本)が南朝_(日本)を吸収することで収拾された。
この頃は天皇の権威の低下が著しく、室町幕府三代将軍足利義満は、自分の子足利義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府四代将軍足利義持がこれを固辞している(義満が自分より義嗣をかわいがっていたため、父を快く思わなかったためといわれている)ので、その真相については未だ定かではない。
戦国時代 (日本)末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しく、烏帽子を逆さまにして物乞いをしたり、共同浴場に出向いたりする公家も生じるようになったが、有力戦国大名や織田信長政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後まで制度として継続することになる。
近世
江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。
また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。
庶民の尊敬の対象は大名や征夷大将軍(上様、将軍様)に向けられ、天皇や公家は庶民とは間接的に縁のある存在(天子様)として敬意が払われる程度であったとも考えられている。
しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、儀礼上全て天皇から任命されるものであり、権威の源泉として重要な意味を持つ存在であった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。
江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁(すけひと)親王に太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。
しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。
そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。
明治維新
幕藩体制が揺ぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。
マシュー・ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。
このことは前例にないことであった。
このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。
しかしこの画策は失敗し、薩摩・長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。
幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いで官軍と衝突し、内戦となった。
その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。
「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。
この戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。
しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。
これにより皇室制度は、プロイセン式の立憲君主制を採ったが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、皇室制度は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。
こうした皇室制度は、国民から隔絶した絶対的な権力を有する天皇制天皇制絶対主義であると規定する学者も少なくない。
なお皇室制度について、一般には「天皇制」が広く用いられるが、天皇制とは本来コミンテルンの用語であり、歴史用語としては適当でない。
明治以降
明治31年(1898年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説に「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」とあったため問題となり、皇室制度の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。
その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。
明治44年(1911年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。
この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。
徳富蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。
その後は、政府の方針に対する世論の批判をかわす目的で天皇の存在は利用され、天皇を批判する言論は不敬罪として厳重に罰せられたこともあって、天皇批判は影を潜め、「冬の時代」とも称されるようなった。
その後、2度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。
大正デモクラシーの時期には、天皇制を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。
しかし、大正14年(1925年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。
昭和10年(1935年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で排撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。
政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在は大きく利用されることとなった。
世界恐慌の後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を大きく利用する。
大日本帝国憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、政府の方針を無視し満州事変等を引き起こした。
また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴宣言を通じて勢力を強めていく。
この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。
その権威が頂点に達したのは太平洋戦争時であり、昭和13年(1938年)の国家総動員法が発令された頃より、軍部により現人神(あらひとがみ)と神格化され、天皇を中心とした戦時国家体制が作られた(皇国史観を参照)。
この時代には、ドイツのナチス政権やイタリアのベニート・ムッソリーニ政権といったファシズム体制が成立し、日独伊三国同盟が結ばれたことから、この時期の日本の皇室制度は天皇制ファシズムとも呼ばれている。
第二次世界大戦終結後
第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では、軍国主義の一因として天皇を処罰し、天皇制を廃止すべきだという意見が強かったが、日本政府がその維持を強く唱えたこともあり、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても皇室制度は存続させるべきだという方向性を取った。
昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交的策略により、占領当局は追及しないこととした。
当時、民間には、天皇をめぐる各種の意見が生じたが、戦前、皇国史観のために被害を受けた津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。
その外、天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする説も、南原繁・佐々木惣一・中曽根康弘らが唱えたが、一部に止まった。
昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、撤回した。
この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。
今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも肩の力を抜いた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。
さらには、人間宣言を発表し、このなかで“天皇は現人神ではなく人間である”といういわゆる「人間宣言」もなされた。
しかしこの宣言は、戦前戦中に「修身」の教科書などで国民が意識していた“日本国民は優秀な民族であり、世界の支配者たるべき立場にある”という概念を否定する文脈にあること、詔書の冒頭において「五箇条の御誓文」を掲げていることに見られるように、かならずしも従来の天皇のありかたそのものを否定するものでは無かったとする説もあった。
しかし、木下道雄侍従次長の『側近日誌』の公開によって、天皇が「現人神」(あらひとがみ)であることを否定するものであったことが明白になり、そのような主張をする学者はいなくなった。
昭和天皇は人間宣言をした後、日本全国各地への巡幸をはじめたが、多大な犠牲者を出した沖縄戦が行われ当時日本と切り離され連合軍の直接統治下におかれた沖縄は、対象とされなかった。
この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。
なお、この巡幸の目的には、新たな象徴天皇崇敬の国民の意識形成があったともいわれる。
沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際しそのことに触れられている。
昭和天皇.E8.A1.8C.E5.B9.B8に詳しい。
天皇と海外の国々
昭和天皇の大葬の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れた。
インドは3日間、ブータンでは一か月間喪に服した(日本は2日間)。
また、明仁親王の天皇即位の際にも世界各国の国家元首が多く参列に訪れた。
アメリカ合衆国のジェラルド・R・フォードは、昭和天皇の前に立った時には足が震えたというエピソード(竹村健一著より)もある。
一方、昭和天皇は、第二次世界大戦での敵国関係にあったオランダ・イギリス等からは、憎悪の目でみられる事もある。
昭和天皇がオランダに訪問した際に、一部の人々から抗議活動として火炎瓶等を投げつけられる事があった。
タイ王国、ブータンの王室とは交友が深い。
皇位継承権論争
1965年の秋篠宮文仁親王の誕生から2006年の悠仁親王の誕生まで男性皇族が誕生していなかったため、皇位を継ぐべき男系男子が不足しており、皇室典範に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。
そのため、皇室典範を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、旧皇族を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている。
国体論争
大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬者とされていたのに対し、日本国憲法では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ国民主権原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の国体が変わったか否かについて起きた論争。
特に尾高・宮沢論争と佐々木・和辻論争が有名。
国家元首としての天皇と憲法改正
自民党憲法改正試案、民主党鳩山氏憲法改正試案、民主党小沢氏憲法改正試案、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する財団法人世界平和研究所憲法改正試案が、国家元首を天皇にすべしと提言している。
議案提出権を有しない衆議院憲法調査会、及び議案提出権を有しない参議院憲法調査会では天皇の地位に関して現在も議論中であり、結論は出ていない。
読売新聞憲法改正試案では天皇制は現状維持と述べている。