天皇機関説 (Emperor Organ Theory)
天皇機関説(てんのうきかんせつ、天皇機關說)とは、大日本帝国憲法下で確立された、天皇に関する憲法学説である。
主権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いた。
ドイツの公法ゲオルグ・イェリネックに代表される国家法人説に基づく。
概要
天皇機関説は、明治時代の終わりから頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である。
憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる。
国家学説のうちに、国家法人説というものがある。
これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。
国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。
この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だということになる。
これがいわゆる天皇機関説または単に機関説である。
(※太字は、原文傍点。)
大日本帝國憲法
1889年に公布された大日本帝国憲法では、天皇の位置付けに関して、次のように定められた。
大日本帝国憲法第1条:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス(天皇主権)
大日本帝国憲法第4条:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ(統治大権)
これらの条文や憲法全体の解釈運用にあたっては、大きく分けて2つ学派があった。
天皇機関説(国家主権説、国家法人説とも)派 - 立憲学派
美濃部達吉や佐々木惣一らの立憲学派は、議会を中心とした立憲主義に重きを置いて学説を構成した。
具体的には、天皇主権より統治大権を重視し君主であっても『憲法ノ條規(議会)』に行動が制限される解釈と云える。
天皇主権説派 - 君権学派
「君権」に重きを置いて学説を構成した穂積八束や上杉慎吉ら君権学派(神権学派とも)。
具体的には、天皇主権に重きをおき原則的に天皇には『憲法ノ條規』があってもあらゆる制限は無いという解釈と云える。
(天皇機関説ではしばしば専制を含む意味で主張された。)
これら両派は、には、上杉と美濃部の間で天皇機関説論争として対立し、その後大正デモクラシーの時期を通じて立憲学派の立場が優勢となり、通説的立場を占めた。
しかし、に生じた天皇機関説事件で、美濃部の一部著書が出版法の発売禁止処分を受け、政府が国体明徴声明で学説の事実上の公定を行った。
補足
次節でみるように、天皇機関説においても、国家意思終局的決定権の意味での主権は天皇にあると考えられており、天皇の権限は否定されていない。
天皇機関説はあくまで「立憲君主」のあるべき姿を論じた点に注意されたい。
現代では通常憲法に条規を定めておき議会(立法府)により君主の行動を制限するのが立憲政治である。
また反対に憲法を定めず法令によらずして被支配者層を介せず統治するのが前近代的な専制政治である。
憲法発布当初その1年後に帝国議会が開会し、大正デモクラシー以後の政党政治の確立によって、日本は名実共に立憲君主国となった。
しかしながら、こういった立憲君主との考えをば大衆をして浸透しなかったようで(それは美濃部の弁明を新聞で読んだ大衆の反応と、貴族院 (日本)での反応の温度差に明らかであり)、一連の騷動以後は天皇主権説が台頭したため、それらの論者は往々にしてこの立憲君主の考えを「西洋由来の学説の無批判の受け入れである(『國體の本義』より要約)」と断じた。
日本国民の政治感覚のなさが、世論(大衆の意見)が輿論(公的な意見)となり増大された。
やがて政府が動かざるをえなくなり(国体明徴声明)、従来主流であった立憲学派および天皇機関説の命脈は絶たれた。
さまざまな主権説
国家制度比較できるよう色分けされた世界地図
凡例
「主権」という語は多義的にさまざまな意味に解釈することができるため注意が必要である。
不可侵な国家統治の権力としての主権
「統治権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、国家と答えるのが「国家主権説」である。
この意味での主権に関しては、現代でも国家主権説が通説である。
たとえば、日本国憲法を国民は想起したがその条規は守らねばならず、その行動は制限される。
それを犯せば君主であれ国民であれ主権を侵すことになり、ここに立憲制は瓦解する(この場合の主権は、例えば領海侵犯や国民が他国へ拉致された場合などにおいて「我が国の主権侵害」などと言われるが、まさにこの内外に(法律面で)侵されざるべき国家の權利を主権という)。
国家政治の決定権としての主権
一方で、「国家の最高決定権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、「君主である」と答えるのが「君主主権」、「国民である」と答えるのが「国民主権」である。
この意味での主権は、国家主権説でいうところの主権とは意味が全く異なっている点に注意されたい。
たとえば、現在の日本は日本国憲法に「主権者」は日本国憲法前文に「主権は国民に在する」と、「天皇」は日本国憲法第1条に「国民統合の象徴」とあるが、実情は「立憲君主」とみなされている(日本国参照)。
これらは解釈が難しい所であるが、大日本帝國憲法においては明確に「統治權ヲ總攬(第4条)」とあるので主権は君主が有する(第4条での統治権は「總攬」が政治の掌握の意であり、すなはち国家の最高決定権を指す)。
国家主権説は君主主権説とも国民主権説ともにおいて両立する。
国家主権説では、いかなる国家であっても、統治権の意味での主権は国家にある。
美濃部達吉の天皇機関説は、統治権の意味では国家主権、国家最高決定権の意味では君主主権(天皇主権)を唱えるものである。
すなはち立憲君主制国家を論じたものである。
当時日本ではすでに議院内閣制が施行されていたが、現代ではほとんどの国家で憲法が施行されている(右図の紫などを除く)。
天皇機関説の発展
大日本帝国憲法の解釈は、当初、東京大学教授・穂積八束らによる天皇主権説が支配的で、藩閥官僚による専制的な支配構造(いわゆる超然主義)を理論の面から支えた。
天皇主権説とは統治権の意味での主権を天皇が有すると説く学説である。
また、この天皇主権は究極のところ天皇の祖先である「皇祖皇宗」に主権があることを意味する「神勅主権」説とも捉えられた。
これに対し、東京帝大教授の一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。
もっとも、国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、日清戦争後、政党との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。
日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。
すなわち、オットー・フォン・ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。
美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。
美濃部の天皇機関説はおおよそ次のような理論構成をとる。
国家は、一つの団体で法律上の人格を持つ。
統治権は、法人たる国家に属する権利である。
国家は機関によって行動し、日本の場合、その最高機関は天皇である。
統治権を行う最高決定権たる主権は、天皇に属する。
最高機関の組織の異同によって政体の区別が生れる。
(衆議院憲法調査会・事務局作成資料「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」)
大正時代の初めには、穂積の弟子である東京帝大の上杉慎吉と美濃部との間で論争が起こる。
共に天皇の王道的統治を説くものの、上杉は天皇と国家を混同し、「天皇は、天皇自身のために統治する」「国務大臣の輔弼なしで、統治権を勝手に行使できる」とし、美濃部は「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためするのではない」と説いた。
この論争の後、京都大学教授の佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。
民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、大正時代半ばから昭和の初期にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。
この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。
天皇機関説事件
憲法学の通説となった天皇機関説は、議会の役割を重視し、政党政治と憲政の常道を支えた。
しかし、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部が台頭すると、軍国主義が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった。
1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、憲政の常道が崩壊すると、この傾向も強まっていった。
1935年(昭和10年)には、政党間の政争を絡めて、貴族院において天皇機関説が公然と排撃され、主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部が弁明に立った。
結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。
美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。
当時の岡田内閣は、同年8月3日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。」とした。
同年10月15日にはより進んで「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。
昭和天皇の見解
昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。
国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。
また鈴木貫太郎侍従長には、次のように話している。
「主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。
君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。
……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。
今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。
ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ」と話している(『西園寺公と政局』)。
戦後の天皇機関説
第二次世界大戦後、憲法改正の気運が高まる中、美濃部は憲法改正に断固反対した。
政府、自由党_(日本)、日本社会党の憲法草案は、すべて天皇機関説に基づいて構成されたものであった。
しかし、天皇を最高機関とせず国民主権原理に基づく日本国憲法が成立するに至り、天皇機関説は解釈学説としての使命を終えた。