安徳天皇 (Emperor Antoku)
安徳天皇(あんとくてんのう、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代の天皇。
在位は治承4年(1180年)4月22日 - 寿永4年(1185年)3月24日。
名は言仁(ときひと)。
系譜
父は高倉天皇で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)、祖父は、平清盛。
略歴
治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。
治承4年(1180年)2月21日に践祚し、4月22日に2歳で即位するが、当然、政治の実権は清盛が握る。
即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原京福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸。
寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、三種の神器とともに都落ちする。
平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、行宮を置いた。
源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍によって、平氏が屋島の戦いに敗れると海上へ逃れる。
そして寿永4年(1185年)、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。
平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る。
安徳天皇は、最期を覚悟して神爾と宝剣を身につけた祖母平時子に抱き上げられると、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。
二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。
この世はつらくいとわしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。
安徳天皇は小さな手を合わせて念仏を唱えると、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じ、安徳天皇は歴代最年少の8歳で崩御した(『平家物語』「先帝身投」より)。
母の建礼門院も入水するが、熊手に髪をかけられ引き上げられている。
この際、三種の神器のうち八尺瓊勾玉と天叢雲剣が海底へ沈んだ。
のちに神璽は引き上げられたが、宝剣はこの時失われたとされる。
下関市伊崎町には、壇ノ浦の合戦の翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したという御旅所がある。
寿永2年(1183年)に後鳥羽天皇が即位したため、同年から崩御の寿永4年(1185年)までの2年間、在位期間が重複している。
諡号・追号
「安徳帝」と漢風諡号がおくられた。
明治以後になると「安徳天皇」と表記する。
在位中の元号
治承 (1180年4月12日) - 1181年7月14日
養和 1181年7月14日 - 1182年5月27日
寿永 1182年5月27日 - 1184年4月16日
元暦 1184年4月16日 - (1185年3月24日)
※平氏側では改元以降も寿永を使用している。
霊廟・陵墓
入水後、菩提を弔うために阿彌陀寺御影堂が建てられた。
のちに安徳天皇は、水天宮(福岡県久留米市)の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになった。
明治に入り、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿彌陀寺に隣接するものが陵墓とされ阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ)とされた。
廃仏毀釈て、安徳天皇を祀る赤間神宮(山口県下関市)となった。
伝説
安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説が残されている。
平家の落人も参照。
平盛国が奉じて阿波国西祖谷山村(現在の徳島県三好市)に隠れ住んだとする説、平資盛に警護され薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れたとする説、対馬に逃げ延びて宗氏の祖となった説をはじめとして九州四国地方を中心に全国に20ヶ所あまりの伝承地がある。
(福岡県筑紫郡那珂川町には昔から安徳という地名があるが、文献に限って言えば落人伝承としてではなく、同地安徳台は源平合戦の最中現地の武将原田種直が帝を迎えたところという。
『平家物語』では平家は大宰府に拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している。)
硫黄島の伝説については、安徳天皇であるという確証はないものの、島民から「天皇さん」と呼ばれていた人物がいたらしい。
その人物が「あかずの箱」というものを所持していたということも分かっている。
この「あかずの箱」というものは、中身未確認のまま島津氏に奪われたが、この箱の中には、三種の神器のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる宝剣が入っていたのではないかと考えられる。
また『平家物語』に安徳天皇は実は女子であったのではないかという疑念を起こさせるような記述があることをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の「義経千本桜」などでは、女子であったという筋立てを採用している(渡辺199082-122ページ参照)。