小倉宮恒敦 (OGURANOMIYA Tsuneatsu)
小倉宮恒敦(おぐらのみや つねあつ、生年不詳 - 応永29年7月15日 (旧暦)(1422年8月11日))は、南北朝時代 (日本)の第99代、南朝 (日本)最後の第4代天皇である後亀山天皇の皇子。
小倉宮家初代。
親王宣下があったかどうか不明。
南北朝合一の際、北朝 (日本)側は恒敦を後小松天皇の皇太子とする約束をした。
しかし、後亀山上皇と恒敦は、応永17年(1410年)吉野に逃亡する。
(経済的理由を根拠としてと自称した)。
しかしこの逃亡は本当は南朝側に皇位を継がせることを快く思っていなかった後小松天皇をはじめとする北朝側を牽制する目的があったのではないかという説がある。
実際に応永19年(1412年)8月、北朝側の称光天皇が践祚する。
その後、応永23年(1416年)に後亀山上皇は室町幕府の要請で京に帰る。
しかし、恒敦は父には従わず、この後も吉野で更に抵抗を続けた。
その後、恒敦は応永29年7月15日に亡くなる。
恒敦らの抵抗はその後の自天王(尊秀王)まで続く後南朝の抵抗のさきがけとなった。
子に小倉宮聖承がいる。