山背大兄王 (Prince Yamashiro no oe)
山背大兄王(やましろのおおえのおう、生年不詳 - 皇極天皇2年11月11日 (旧暦)(643年12月30日))は、『日本書紀』によれば7世紀前半の皇族。
『日本書紀』には、厩戸皇子(聖徳太子)の子であるという記述はない。
生涯
『日本書紀』に拠ると、推古天皇が病没した後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。
その結果、蘇我蝦夷の擁立する舒明天皇らと皇位を争う。
だが、蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、629年に即位(舒明天皇)する。
蘇我蝦夷が山背大兄王を避けた理由については、山背大兄王がまだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説と、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある。
だが、蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。
このため、王と蘇我氏の関係は決定的に悪化する。
643年11月1日、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連、大伴長徳に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。
山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺した。
馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、莵田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。
家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。
しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。
このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。
山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。
結局、山背大兄王は生駒山を下り法隆寺に入り、11月11日に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。
蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。
なお墓は不詳であるが、法輪寺 (斑鳩町)近郊にある「岡の原」という小山が山背大兄王墓であるという伝承がある。
当時の天皇は長男による世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。
その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。
これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。
また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。
更に山背大兄王の暗殺には、多数の皇族が加わっていたと言われている。
これは山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ出来た事件であろう。
当時の後継者選びの基準が上宮王家一族を悲劇へと追い込んだのである。
上宮聖徳法王帝説
『上宮聖徳法王帝説』では厩戸豊聰耳聖徳法王、聖王の児、山代大兄王(此王有賢尊之心棄身命而愛人民也、後人与父聖王相濫非也)とされ、母は、蘇我馬古叔尼大臣娘の刀自古郎女、妻は舂米王、子どもは難波麻呂古王、麻呂古王、弓削王、佐々女王、三嶋女王、甲可王、尾治王が生まれたとされる。
飛鳥天皇御世 癸卯年10月14日に、蘇我豊浦毛人大臣兄入鹿臣□□林太郎が伊加留加宮にいた山代大兄とその昆第等、合15王子等ことごとく滅すなり(「飛鳥天皇御世 癸卯年十月十四日 蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣□□林太郎 坐於伊加留加宮 山代大兄及其昆第等 合十五王子等悉滅之也」)と記述されている。
(□は欠字)
聖徳太子伝補闕記
『聖徳太子伝補闕記』には皇極天皇2年(643年)に大狛法師(狛大法師、大化の改新後大化元年8月8日に孝徳天皇の「大化僧尼の詔」により十師に選ばれた)が事件後6日後に斑鳩寺にいた山背大兄王の息子弓削王を殺したと記述されている。