崇神天皇 (Emperor Sujin)

崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日 (旧暦)(紀元前29年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 (旧暦)(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日 (旧暦)(紀元前29年1月9日))。
和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。
また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。
『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。
現代の日本の学術上、実在の可能性がある程度見込める初めての天皇である。

人物
記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王 (ヤマト王権)と捉える見方が未だ少なくない。
『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。

後述の諡号から、崇神天皇をもって初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある。

欠史八代を史実の反映と見る立場からは、書紀の記述によると、神武天皇が畿内で即位後は畿内周辺の狭い領域のことしか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。
また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。
いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。

諡号・追号・異名

御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと) - 『古事記』
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記』
ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、初めて天下を治めた天皇という意味であるが、初めて国を治める天皇がふたり存在することになる。
これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、崇神の称号にみえる国という具体的な語より上位の観念であり、また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武は崇神より後に「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられる。
それ故に国(大和)を初めて治められたのは崇神であると考えられる。
『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。

崇神の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通している。
イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。
「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在の可能性が高まり、崇神を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。

崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名(諱)をそのまま記紀に記載した、とする説も存在しており、「イリ王朝」が古代日本史に於いて、如何に特殊かつ重要な存在であったかを伺わせる。

皇居

都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。
『古事記』には、「師木の水垣宮(みづかきのみや)に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。

略歴

年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。

開化天皇10年(紀元前148年)に産まれ、28年(紀元前130年)に立太子、60年(紀元前98年)の開化天皇崩御に伴い翌年即位。

崇神天皇3年(紀元前95年)9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

崇神天皇5年(紀元前93年)、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

崇神天皇6年(紀元前92年)、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年(紀元前5年)に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。
(詳細記事:元伊勢)

倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

崇神天皇7年(紀元前91年)2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

崇神天皇10年(紀元前88年)9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦命を山陽道に、丹波道主命を丹波国(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。
しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。
武埴安彦は山背国から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。
10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

崇神天皇11年(紀元前87年)4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。

崇神天皇12年(紀元前86年)9月、戸口を調査し、課役を科す。
天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。

崇神天皇48年(紀元前50年)1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。
4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

崇神天皇60年(紀元前38年)7月、飯入根(いいいりね)が出雲大社の神宝を献上。
兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。

崇神天皇65年(紀元前33年)7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。

崇神天皇68年(紀元前30年)12月、120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。

『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。
また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる。

陵墓・霊廟

山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に葬られた。
『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。

現在、同陵は奈良県天理市柳本町の柳本行燈山古墳(前方後円墳・全長242m)に比定される。
しかしながら、それより少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳・全長220m)を、その真陵とする考え方もある。
行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。
前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。

[English Translation]