後嵯峨天皇 (Emperor Gosaga)

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。
諱は邦仁(くにひと)。

系譜

土御門天皇の第二皇子。
母は、土御門通宗の娘、源通子。

略歴

土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である中院通方・土御門定通の許で育った。
だが、土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていた。

ところが四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。
公卿や鎌倉幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。
九条道家ら公卿勢力は、順徳天皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとしたが、執権北条泰時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の妻は泰時の異母妹であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。
この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。

邦仁王は1242年即位し、1246年、在位4年で後深草天皇に譲位。
以後、院政を敷く。
この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚した事もあって、以後上皇の主導によって朝廷内の政務が行われる事になった。
以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用されて院政が展開されていく事になる。
1259年には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である亀山天皇への譲位を促した。

後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。
また、摂家の代わりに、宗尊親王を将軍として送っている。
以後、鎌倉幕府の将軍は天皇家より出ることになる。
また、この時代に北条氏が鎌倉幕府を掌握し、執権政治を確立する。

1268年に出家して法皇となり大覚寺に移る。
1272年、崩御。

後嵯峨上皇が、後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子にした事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く大乱の源となった。
吉川英治は『私本太平記』中で「天子の座は象徴で、治天の君たる上皇、法皇にこそ実権がある、というのは既に常識であった。
この無理な処置は少しでも長く院政の権栄を享受したいがためであろう。」と考察している。

在位中の元号

仁治 (1242年1月9日) - 1243年2月26日

寛元 1243年2月26日 - (1246年1月19日)

陵墓・霊廟

京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町の嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)に葬られた。

[English Translation]