応神天皇 (Emperor Ojin)
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 (旧暦)(201年1月5日) - 応神天皇41年2月15日 (旧暦)(310年3月31日))は、第15代の天皇(在位:応神天皇元年1月1日 (旧暦)(270年2月8日) - 同41年2月15日(310年3月31日))。
別名、誉田天皇・誉田別尊(ほむたわけのみこと)。
諸説
実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。
その年代は、古事記の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。
『記・紀』に記された系譜記事からすると、応神は当時の王統の有力者を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説がある。
この実在の不確かさもあり、大王の実像をめぐっては諸説が出されてきた。
応神の和風諡号である「ホムダ」は飾りの多い8代以前の天皇と著しく違っている事から実在とみなす説、三王朝交代説における征服王朝の創始者とする説、邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先祖として祭られている神(宇佐八幡)とする説、河内王朝の始祖と見なす説などである。
また、海外史料との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比定する説(ほかに仁徳や履中を比定する説もある)、「広開土王碑」に見える倭国の朝鮮進出を指揮した可能性も指摘されている。
諡号
『日本書紀』には、譽田天皇(ほむたのすめらみこと)・一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)とあり、分注に去来紗別尊(いざさわけのみこと)とある。
また、母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)の敬称がある。
『古事記』には、品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)とある。
この別名は天皇が生まれた時、その腕の肉が鞆(とも。弓を射る時に左腕に巻きつける道具)のように盛り上がっていた事に由来するという。
『播磨国風土記』には、品太天皇(ほむだのすめらみこと)と表記。
「上宮記」逸文には、凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)と表記。
諡号か実名か
応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、とする説がある。
確実性を増してからの書紀の記述による限り、天皇に和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。
とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。
22代清寧天皇のシラカタケヒロクニオシワカヤマトネコ(白髪武広国押稚日本根子、『日本書紀』に因る)のように明らかな和風諡号も見られるが、これはむしろ清寧天皇が後に皇統の列に加えられた架空の天皇である可能性を物語っている(ただし、清寧天皇の和風諡号は実名を基にした物であるため、実在した可能性が高い、とする説もある)。
『日本書紀』には、吉備氏の祖として御友別(みともわけ)の名が、『古事記』には、近江国の安(やす)国造の祖先として意富多牟和気(おほたむわけ)の名が見えるが、これらの豪族の名の構成は「ホムダワケ」と全く同じである。
これらのことから、「ワケ」(別・和気・和希などと表記)の称を有する名は4世紀から5世紀にかけて皇族・地方豪族の区別なく存在し、ごく普遍的に用いられた名であることが分かる。
事実、景行天皇・履中天皇・反正天皇の各天皇の名にも「ワケ」が含まれており、実名を基にした和風諡号である可能性が高い。
以上の点から、応神天皇の「ホムダワケ」と言う名も実名だった、とこの仮説では見なしている。
なお、この「ワケ」の語義ならびに由来については、諸説あって明らかにしがたい。
『古事記』では、景行天皇が設置した地方官の官職名であり、皇族から分かれて諸地方に分封された豪族の称としている。
が、これは観念的説明であろう。
父は先帝仲哀天皇で、母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされるが、異説も多い。
その理由は異常に出産が遅れたことにある。
父として「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社の住吉大社神代記」)とある住吉大神や、あるいはまた武内宿禰とする考えもある。
このような出生の神秘性は、本来応神天皇が前王朝との血統上のつながりを持たず、新王朝の開祖であるとされたことを物語っているとするものもある。
皇居
都は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町か)。
古事記には、軽島之明宮と見える。
『日本書紀』によると、大阪にも大隅宮(おおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区 (大阪市))が置かれたという。
事績
神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。
神功4年(204年)に立太子。
応神天皇元年(270年)に71歳で即位、同41年(310年)に111歳で崩御。
『古事記』に130歳。
『古事記』に「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。
また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。
また新羅人参渡(まいわた)り来つ。
ここをもちて武内宿禰引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」。
『日本書紀』にも同様の記事が見え、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。
剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。
『古事記』に、百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、雄雌各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。
この阿知吉師は阿直史等の祖。
また、横刀(たち)や大鏡を献上した。
また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は王仁(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」。
『書紀』の十五年八月条と十六年二月条に同様の記事が見える。
また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている。
後世、神功皇后と共に八幡神に付会され、皇祖神や武神として各地の八幡宮に祭られる。
陵墓
『古事記』に「御陵は河内国の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」と記す。
『書紀』に陵名の記載はないが、雄略紀に「蓬丘(いちびこのおか)の誉田陵」と見える。
『延喜式』諸陵寮に恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)。
現在、同陵は大阪府羽曳野市誉田六丁目の誉田山古墳(前方後円墳・全長425m・後円部高さ36m、もと二重に堀をめぐらしていた)に比定される。
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)につぐ(第2位の規模)5世紀初ともいわれる大前方後円墳。
ただし考古学の絶対年代はよほど強力な史料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある。