恬子内親王 (Imperial Princess Yasuiko)

恬子内親王(やすいこないしんのう、不詳(848年頃?) - 延喜13年6月18日 (旧暦)(913年7月24日))。第31代伊勢斎宮。
父は文徳天皇、母は更衣 (女官)紀静子。
同母兄に惟喬親王がいる。

貞観 (日本)元年(859年)、清和天皇の即位にともなって斎宮に卜定、貞観3年(861年)に伊勢に下る。
『三代実録』によると、発遣の儀は天皇自身ではなく、右大臣の藤原良相が代理であたったという。

貞観8年(866年)2月、母親の静子更衣が亡くなるも退下の宣勅は下りず、貞観18年(876年)、清和天皇が陽成天皇に譲位したことにより、ようやく斎宮を退下。

翌元慶元年(877年)4月、妹・珍子内親王を亡くす。
恬子内親王本人は比較的長命だったらしい。
その後、陽成天皇以下三代の天皇が交代した。
醍醐天皇の治世まで生きた。

古典『伊勢物語』において、一説には書名の由来ともされる人物。

『伊勢物語』における恬子内親王

第六十九段に、「斎宮なりける人」という呼び名で登場する。
それによると、女(恬子内親王)のもとに、親(通説では紀静子)から、一通の手紙がよこされたという。
そこには、近々勅命により狩の使が行くが通常よりは丁重にもてなすように、と記されてあった(この「狩の使」が、恬子の従姉の夫であり、平城天皇の孫でもある在原業平と考えられている)。
そこには、近々勅命により狩の使が行くが通常よりは丁重にもてなすように、と記されてあった。
(この「狩の使」が、恬子の従姉の夫であり、平城天皇の孫でもある在原業平と考えられている)。
女は親の言うとおり、きちんと心をこめてもてなした。
男は丁重なもてなしに感動し、女に恋心を抱いてしまう。
そして「逢いたい」と言ったという。
女のほうも男に惹かれていたらしく、「絶対逢ったりはしまい」とは思っていなかったのだが、人目が多く、逢うことができなかった。
女のほうも男に惹かれていたらしい。
「絶対逢ったりはしまい」とは思っていなかったのだが、人目が多く、逢うことができなかった。
だが、人が寝静まった子一つの時(夜中の12時半ごろ)、女が女童を先に立たせ、女のことを思って眠れずにいた男の寝所までやってきた。
男はたいへんうれしく思い、彼女を寝所に迎え入れた。
そうして丑三つの時まで一緒にいたが、何も語り合えずにいるうちに(思いを遂げられずにいるうちに)、とうとう女は帰ってしまった。
男は悲しく、その後も眠れなかった。
翌日も女のことが気にかかって仕方がなかったが、自分のほうから様子を尋ねるわけにはいかなかった。
非常に心細く待ちわびていた。
すると女から(次の歌が贈られてきた)。

『君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか』(昨夜はあなたがいらっしゃったのでしょうか、私が行ったのでしょうか、あなたとの逢瀬も、夢だったのでしょうか、それとも現実だったのでしょうか)

という、詞書のない歌が贈られてきたので、男は激しく泣き

『かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ』(私も、あなたへの募る想いで惑ってしまいました。
今宵こそ、夢か現実かを定めましょう)

と返した。
そして日中、狩に出たが、心は上の空で、早く夜にならないかと待ち望んでいた。
だが、伊勢国の国司で斎宮寮の長官も兼任している人が、狩の使が来ていると聞き、一行を招いて一晩中宴をはった。
ついに再び女に逢うことはできなかった、という。

『伊勢物語』後の恬子内親王

『伊勢物語』では、「狩の使」と「斎宮なりける人」はついに逢瀬を遂げることは出来なかったことになっている。
が、この一夜の契りによって、恬子内親王が懐妊してしまったという説がある。
この前代未聞の不祥事が発覚することを恐れた斎宮寮は、生まれてくる子供を伊勢権守で斎宮頭であった高階岑緒の子、高階茂範の養子にすることにした。
子は高階師尚と名づけられたという。
ただし当時の史料からは、業平が狩の使で伊勢に派遣された事実は認められない。
またいくら美男で皇孫とはいえ、業平は父親の文徳天皇よりも年上でしかも臣下の者だった。
はたして未婚の内親王である斎宮が、事実恋におちたのか、いまだ疑問の余地はあろう。

[English Translation]