惟喬親王 (Imperial Prince Koretaka)
惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) - 寛平9年2月20日(897年3月30日)は、平安時代前期の皇族。
文徳天皇の第一皇子。
母は紀名虎の娘・更衣紀静子。
別名小野宮。
同母妹に恬子内親王がいる。
父・文徳天皇は皇太子として第四皇子である惟仁親王(後の清和天皇)を立てた後、惟喬親王にも皇位を継承させようとしたが、藤原良房の反対を危惧した源信の諫言により実現できなかったといわれている。
これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方惟仁親王の母が良房の娘藤原明子であったことによるものとされる。
ただ、この決定に対する不満が朝廷内部にあったとされ、100年以上経った後でさえその是非が議論の対象になったとされる(『権記』寛弘8年5月27日条。
この時も次期皇太子を巡る敦康親王派と敦成親王派(後の後一条天皇)の確執があり、惟喬と敦康の境遇が類似していた)。
その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任した後出家し、近江国滋賀郡小野に隠棲。
その後、山崎・水無瀬にも閑居し、在原業平・紀有常らと交流したといわれる。
近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。