持明院統 (Jimyoin-to)
持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。
概要
持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。
基頼の孫持明院基家の娘陳子(のぶこ)は守貞親王の妃になり、承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となった(守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称した)。
そして、後堀河天皇は譲位後、持明院邸内を仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院邸内に住んだ。
これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称された。
院政を敷いた後嵯峨上皇が、後深草上皇の弟亀山天皇の子孫(大覚寺統)が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草と亀山の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。
大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇による建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統に統一されたかに見えたが、新政は2年半にして崩壊する。
吉野に逃れた後醍醐天皇に代えて、足利尊氏は持明院統(北朝)の光明天皇を擁立する。
後醍醐は自己の正統性を主張し(南朝)、南北朝時代となる。
一般的に現在の日本の皇室は、この持明院統の子孫と言われているが、持明院統嫡流とされている後光厳院流は後小松天皇の子である称光天皇の代で断絶しており、厳密に言えば持明院統の分家(崇光天皇の子孫、崇光院流)と位置付けられてきた伏見宮家が現在の皇室の直接の祖先にあたる。