推古天皇 (Empress Suiko)
額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。
天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着している。
ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。
『古事記』ではこの天皇までを記している。
推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日 (旧暦)(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日 (旧暦)(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。
日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主である。
日本の歴史の飛鳥時代の始まりはいつなのか諸説あるが、推古天皇の即位を基準にするのが一般的である。
日本に伝来した仏教文化が本格的に華開いた時代であり、これを飛鳥文化という。
妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。
(分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき)。
御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき。
(『古事記』)。
小治田宮は奈良県高市郡。
和風謚号
『古事記』
- 豊御食炊屋比売命
『日本書紀』
- 豊御食炊屋姫尊
第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣 (日本)蘇我稲目の女蘇我堅塩媛。
第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。
蘇我馬子は母方の叔父。
『日本書紀』に「姿色端麗・進止軌制」(「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)いた)と記される。
欽明天皇32年(571年)に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇)の妃となる。
敏達天皇5年3月(576年)、皇后広姫の逝去を承け皇后に立てられ、敏達14年8月乙酉朔己亥(8月15日 (旧暦))(585年9月15日)、35歳のとき、敏達天皇が没した。
ただし、『日本書紀』推古紀によれば18歳で皇后に立てられたとあり、これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになり、広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある。
菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけた。
用明元年夏5月(586年)、殯に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたが、逆の方は殺されるはめとなった。
即位
その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(旧暦4月9日 (旧暦)『古事記』では4月15日 (旧暦))(587年)に病没後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。
そこで敏達皇太后が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。
しかし、5年後の祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日 (旧暦))(592年)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日 (旧暦))に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。
時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊青皇女を歴代から除外した場合)。
その背景には皇太后が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく死去してしまう)。
皇太子・聖徳太子
翌年(593年)4月10日 (旧暦)、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。
厩戸の父は推古天皇の同母兄の用明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であったからだと見られている。
コーネル大学のアジア研究者ジョーン・ピゴットは、このような女性天皇と男性摂政というとりあわせを、祭祀の責務と行政の責務のあいだの対位法的な関係をベースにした相補型の共同統治であると述べている。
シカゴ大学名誉教授で宗教史学者のジョゼフ・キタガワは、シャーマン的能力の持ち主で、血縁の男性を介して長期間の統治を行った受動的な女性最高権者である点が、邪馬台国の卑弥呼に似ていると述べている。
推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。
在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。
ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だといわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。
遣隋使
このように、公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。
推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣した。
(実際には、俀国が600年に遣隋使をおくっている。)
(また、これは12年の誤差があり遣唐使の可能性もある。)。
中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていたが、初めて日本の独立性を強調する目的で使節が派遣された。
翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。
また、推古天皇二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。
推古天皇28年(620年)、聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが、2年後には太子が49歳で薨去し、4年後、蘇我馬子も亡くなった。
長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いない。
推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。
死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。
陵墓
日本の歴史書である『古事記』には、「その年の9月20日 (旧暦)に喪礼が執り行われ、遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。
その所在は奈良県橿原市五条野の植山古墳とされている。
後年、時期は不明ながら、大阪府南河内郡太子町山田にある河内国磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ、考古学名としては山田高塚古墳)に改葬された」とある。