敦明親王 (Imperial Prince Atsuakira)

敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日 (旧暦)(994年6月20日) - 永承6年1月8日 (旧暦)(1051年2月21日))は、第67代三条天皇の第一皇子、母は藤原済時の女・皇后藤原せい子。

経歴

父の三条天皇は藤原道長の圧力により、道長の孫にあたる一条天皇の第2皇子敦成親王(後一条天皇)を皇太子とした。
長和5年1月29日に敦明親王は後一条天皇の皇太子となった。
しかし、三条天皇が崩御すると、道長はまたもや敦明親王に圧力をかけていた。
一方の親王側も14歳も年下の天皇の皇太子では次期天皇としての即位の可能性は低いと考え、自ら皇太子廃位を願い出た。
これにより、寛仁元年8月9日に皇太子を辞退した。
同25日に道長の計らいで小一条院太上天皇の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得る一方で、道長の娘藤原寛子(母・源明子)を妃に迎える。
更に家司として受領・随身を受けた。
親王所生の子供達が三条天皇の猶子の資格として二世王でありながら親王宣下を受けるなど破格の待遇を受けた。

しかし、これによって親王に捨てられる形となった正室藤原延子は悲しみの余りに急死した。
続いてその父親の左大臣藤原顕光(関白藤原兼通の長男)も失意のうちに病死した。
顕光父娘はその後怨霊になって道長一族に祟ったとされた。
人々は顕光を「悪霊左府(左大臣)」と呼んで恐れたと伝えられている。

その一方で、親王に関しては短慮な振舞いが多く、藤原実資の『小右記』には親王に対する批判が立太子以前より多く記されている。
例えば長和3年(1014年)6月16日には加賀国源政職に、12月8日には弁官藤原定頼に暴行を振るったことが記されている。
また、藤原行成の『権記』にも皇太子辞退の報を受けて、顔相に詳しくないと前置きしながら「無龍顔」(天皇の相ではなかった)と述べている(寛仁元年8月8日条)。

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