早良親王 (Imperial Prince Sawara (Sawara Shinno))

早良親王(さわらしんのう、天平勝宝2年(750年)? - 延暦4年9月28日 (旧暦)(785年11月8日))は、奈良時代末期の皇族。
光仁天皇の皇子。
母は高野新笠。
桓武天皇、能登内親王の同母弟。

母方が下級貴族であったために立太子は望まれていなかった。
そのため、761年に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。
781年、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子。
だが785年、造長岡宮使 藤原種継暗殺事件に連座して廃された。
無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近で憤死した。

藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明である。
だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。
種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの奈良寺院の影響力排除があった。
そのため、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。

その後、桓武天皇の長男平城天皇(後の平城天皇)の発病や桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死などが相次いだ。
それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
800年、崇道天皇と追称され、大和国に移葬された。
その場所は奈良市八嶋町の崇道天皇陵に比定されている。
またこの近くには親王を祀る社である八嶋神社があり、さらに北に数キロ離れた奈良町にある崇道天皇社、御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。
その他にも近辺には親王を祀る寺社が点在している。

[English Translation]