景行天皇 (Emperor Keiko)

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年11月7日 (旧暦)(130年12月24日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代の天皇(在位:景行天皇元年7月11日 (旧暦)(71年8月24日) - 同60年11月7日(130年12月24日))。
和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。
風土記には大足日足天皇。
風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。
ヤマトタケル(やまとたけるのみこと)の父。

「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号をもつ。
このことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。

記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれる。
が、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半か。

皇居

都は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや、現在の奈良県桜井市穴師か)。
晩年の景行天皇58年(128年)に、近江国に行幸、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)に3年間滞在した後、同60年(130年)崩御。

事績

年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。

年(8年)に立太子。
景行天皇元年(71年)7月に即位、翌年に播磨稲日大郎を皇后に立てる。

4年(74年)、美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在。
八坂入媛を妃とする。

九州巡幸
景行12年(82年)熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。
周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。
筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設ける。
豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入る。
熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。
日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。
18年(88年)3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年(89年)9月に還御した。
なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていない。

25年(95年)7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。

日本武尊の活躍

27年(97年)8月、熊襲が再叛。
10月にヤマトタケルを遣わして、熊襲を征討させる。
首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。
40年(110年)10月、日本武尊に蝦夷征討を命じる。
尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。
陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。
日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。
その後近江国に出向くが、伊吹山の荒神に祟られて身体不調になる。
そのまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御した(景行43年)。
ヤマトタケル祭祀に葬られた。
なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、太平洋戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったという。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)

53年(123年)、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。
東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰る。

58年(128年)、近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること3年。
60年(130年)11月に崩御、143歳。
『古事記』では137歳。

御陵

山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬られた。
『古事記』は「御陵は山邊の道上にあり」と記す。

現在、同陵は奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳(前方後円墳・全長300m)に比定される。

[English Translation]