有栖川宮熾仁親王 (Arisugawa no Miya Imperial Prince Taruhito)
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 1895年(明治28年)1月15日は、江戸幕末~明治時代の皇族、政治家、軍人。
号は初め「泰山」、後に「霞堂」。
有栖川宮幟仁親王の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。
生母は家女房の佐伯祐子。
官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、祭主。
階級は陸軍大将。
勲等金鵄勲章は大勲位金鵄勲章功級。
最初の妃は、旧水戸藩主・徳川斉昭の娘、徳川貞子。
しかし、病弱であった貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳の若さで死去したため、明治6年7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の養女・董子(=ただこ、伊勢神戸藩嫡子・本多忠穆の娘)と再婚した。
経歴
生い立ち
天保6年2月19日、熾仁親王は京都御所北東の有栖川宮邸内において、幟仁親王の第一子として誕生した。
生母の佐伯祐子は通称を嘉奈といい、若宮八幡宮宮司の佐々祐條の娘であった。
実はこのとき、父である幟仁親王はまだ正室の二条廣子と結婚する前であり、熾仁親王は後の嘉永元年9月(1848年10月)に廣子と養子縁組を行っている。
熾仁親王の胎盤は当時の風習により、出世稲荷神社の境内に埋められた。
お七夜の儀に際し、「歓宮」の幼名を授けられる。
嘉永元年10月18日(1848年11月13日)、熾仁親王はすでに崩御していた仁孝天皇の猶子となる。
翌嘉永二年2月14日(1849年3月8日)、孝明天皇より「熾仁」の諱を賜り、2日後の2月16日(3月10日)に親王宣下を受けた。
この年の3月15日(4月7日)、熾仁親王は近衛忠煕の加冠により元服し大宰帥に任命、翌日には品位に叙せられた。
以後、慶應3年に新政府の総裁三職時代の総裁(明治新政府)職に任命されるまで、熾仁親王は「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた。
従って、幕末関連の文書で「帥宮様」「帥宮御方」などと書かれているのは全て熾仁親王のことを指す。
幕末
熾仁親王は嘉永4年(1851年)、17歳の時に孝明天皇の皇妹・和宮親子内親王と婚約し、和宮の歌道指南役を務めたりしたが、公武合体策の一環として和宮が徳川家茂と結婚することになり婚約は破棄された。
親王はこの事に加え、家臣であり教育係であった飯田忠彦の影響を色濃く受け、明治新政府の成立に至るまで朝廷における反会津・親長州派の急先鋒となった。
これにより、京都に集った尊攘志士はこぞって親王を頼った。
特に八月十八日の政変の前後からは、商人を装い「枡屋喜右衛門」を名乗っていた元毘沙門堂家臣・古高俊太郎を仲介者として、寺島忠三郎や久坂玄瑞ら京に残った勤王派の長州藩士達が、粟津義風・前川茂行といった有栖川宮の諸大夫や家臣達と複数回にわたり接触し、両者の間で密会の場を設けたり密使を潜伏させあうなどの交際を行っているほか、熾仁親王は粟津や前川に命じ、長州藩家老の益田兼施宛に慰問の書状を出させたりしている。
禁門の変の2ヶ月前である元治元年5月9日(1864年6月12日)、熾仁親王は父・幟仁親王とともに国事御用掛に任命されて朝政に参画し、親長州派の立場から京都守護職・松平容保らの幕臣たちや、久邇宮朝彦親王ら佐幕派の皇族・公卿らと対立した。
それから間もない元治元年6月5日(1864年7月8日)、長州藩士と宮家との連絡役であった古高は新撰組に捕縛され、副長・土方歳三の拷問を受けて容保殺害計画や孝明天皇拉致計画、京都市中放火計画などを自白したとされる。
これらのテロ計画に、熾仁親王本人を始め有栖川宮関係者が関知・関与していたか否か今日では証明できていないが、元来長州毛利家と縁戚で自他共に認める尊攘論者だった熾仁親王は、有力な過激派シンパとして容保たちからさらに警戒されるようになる。
そのため禁門の変が発生した際、熾仁親王は佐幕派から真っ先に長州藩との関係を糾弾された。
長州藩士との接触が多かった諸大夫の粟津義風は、彼らに便宜を図っていた容疑で慶応2年(1866年)に至るまで京都町奉行所に逮捕・投獄され、熾仁親王自身も孝明天皇の怒りを買い、幟仁親王とともに国事御用掛を解任され、謹慎・蟄居を申し渡された。
途中、中川宮や正親町三条実愛らが孝明天皇に幟仁・熾仁両親王の赦免嘆願を上奏したが、孝明天皇はついにその勅勘を解かぬまま崩御した。
両親王が謹慎生活で外部との接触を絶たれている間、長州征伐、薩長同盟の成立、将軍徳川家茂の死去と徳川慶喜の将軍就任、さらに孝明天皇の崩御により、時代はそれまでとは桁違いの速度で変化してゆく。
しかし、この謹慎期間中も熾仁親王は僧侶に変装して夜な夜な邸を抜け出し、同志たちと密会して国事を論じたほか、入獄中の粟津に代わって頭角を現した藤井希璞(後の元老院議官)を密使として、長州側と接触を図っていたと言われている。
戊辰戦争・東征大総督就任
慶応3年(1867年)1月に明治天皇が践祚すると、幟仁親王・熾仁親王父子は許されて謹慎を解かれた。
この頃から再び勤王派の志士が、倒幕完遂の旗印に担ぎ出すべく有栖川宮家に接近を図っている。
当主である父・幟仁親王は謹慎解除後は政治活動から距離をおいたが、明治天皇の信任と倒幕派の人望が篤い熾仁親王は、王政復古のクーデター計画も西郷隆盛等から事前に知らされる。
このクーデターの成功により新政府が樹立され総裁・議定・参与の三職が新たに設けられると、熾仁親王はその最高職である総裁に就任する。
その直後の慶応4年(1868年)、薩長の度重なる挑発に対し、幕府軍はついに戦端を開き(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発するが、このとき賊軍の首領とされた徳川慶喜は、熾仁親王にとって父・幟仁親王の従弟であった。
そのため、熾仁親王は血縁者が朝敵となった事を恥じて自ら東征大総督となる事を志願し、勅許を得た。
参謀の西郷隆盛に補佐され官軍は東海道を下って行くが、この東征の旅路も実はのどかなものであり、親王は常に輿に乗って移動し、途中の宿場で馬の遠乗りをしたり、各地の名産品に舌鼓を打ったり、花見や和歌に興じたりする様子が親王自身の日記に書き残されている。
この道中で、熾仁親王は恭順を条件に慶喜を助命する方針を固めており、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた北白川宮能久親王と駿府で会見し、法親王に慶喜の恭順の意思を問うている。
一方で、公現入道親王のもう一つの目的であった東征中止については、熾仁親王はこれを断固拒否した。
幸い、東海道において官軍は一度の戦闘もなく江戸に到着し、4月11日(新暦5月3日)江戸城は無血のうちに開城される。
この日、慶喜は死一等を免じられた代わりとして謹慎するため水戸へ発った。
この無血開城に勝海舟と共に尽力したのが、熾仁親王のかつての婚約者、静寛院宮(和宮)であった。
江戸到着直後に太政官制度が発足し三職は廃され、熾仁親王の総裁職は解かれた。
明治時代
明治2年(1869年)に欧州を視察し、翌明治3年(1870年)帰国。
兵部卿に就任。
明治4年(1871年)福岡藩知事(後に福岡県知事・県令)を勤め、贋札事件の余波で混乱する福岡をよく治平した。
明治9年(1876年)に元老院議長に就任。
明治10年(1877年)の西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督に就任し、維新に際して共に国事を語らい、東征に際して共に官軍を指揮した西郷隆盛と、敵将として対峙する皮肉な立場に立った。
西南戦争における功により、同年10月10日に隆盛に次いで史上二人目の陸軍大将に任命され、11月2日には大勲位菊花大綬章を受章した。
西南戦争のさなか、佐野常民や大給恒から「博愛社」(後の日本赤十字社)設立の建議を受けるが、官軍のみならず逆徒である薩軍をも救護するその精神を熾仁親王は嘉し、中央に諮る事なくこれを認可した。
その後熾仁親王は、時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。
明治15年(1882年)にはロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで行われたアレクサンドル3世の即位式に天皇の名代として出席し、帰路には欧州諸国とアメリカ合衆国を歴訪した。
薨去
明治27年(1894年)に勃発した日清戦争では陸海軍の総司令官として広島大本営に下るが、腸チフス(当初はマラリアと診断された)を発症し、兵庫県の有栖川宮舞子別邸にて静養に入る。
症状は一旦軽快したものの翌明治28年(1895年)に入って再び悪化し、1月14日にはついに危篤に陥る。
その知らせを受けた明治天皇はこの日、熾仁親王への大勲位菊花章頸飾授与を決定した。
翌1月15日、熾仁親王は終戦を待たずして舞子別邸にて61歳で薨去。
さらに翌16日には功二級金鵄勲章が授与されたが、これを生前に授与されたことにする等の事情により、公式発表における薨去の日付は、実際には遺体が東京に帰着した日である24日と発表された。
熾仁親王の葬儀は国葬となり、豊島岡墓地内の有栖川宮家墓所に埋葬された。
家族
親王は貞子・董子どちらの妃との間にも王子女に恵まれなかったため、慣例に従うなら別の宮家を創設するか臣籍降下するはずであった異母弟の有栖川宮威仁親王を、自身の後継者にすることが生前に明治天皇から許されていた。
これにより、熾仁親王の薨去後は威仁親王が有栖川宮家を継いだ。
その他
官軍の軍歌であるトコトンヤレ節(品川弥二郎の作詞とされ、「宮さん宮さん」との別名もある)の「宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは なんじゃいな」と歌詞の中で言われている「宮さん」とは、熾仁親王のことである。
陸軍の軍人らしく、趣味は馬術と狩猟、そして刀剣のコレクションであった。
そのほか、園芸・陶芸・竹細工の製作も好んだ。
また、書道・歌道も歴代当主同様名人とされており、前述の通り和宮の歌道指南をしたほか、父幟仁親王より「有栖川流書道」の奥義相伝を受けている。
熾仁親王は粗食家で偏食がなく(東征中も官軍兵士と同じ食事を取った)酒量も少なかったが、比較的低い身長に対して体重は十八貫(約68kg)を下回ることはなく、晩年は肥満から来る心臓疾患に悩まされていたといわれる。
銅像
熾仁親王の薨去後、大山巌・山県有朋・西郷従道などが親王の銅像を建立することを提唱し、陸海軍人や一般から資金を募り東京・三宅坂の参謀本部の正門前に親王の騎馬像が建立された。
除幕式には、董子妃や威仁親王夫妻、提唱者の元老たちに加え、因縁の深かった徳川慶喜も列席して祝辞を述べている。
この像は太平洋戦争後、道路拡張工事に伴って東京都港区の有栖川宮記念公園(威仁親王時代の御用地跡)に移設されている。
印譜
昭和4年(1929年)8月、高松宮家によって『熾仁親王印譜』が編集・刊行されている。
篆刻家の中村水竹・細川林斎・羽倉可亭・中井敬所等の印章が93顆収録されている。
三条実美『梨堂印譜』・大谷光勝『水月斎印譜』・『燕申堂印譜』などとともに明治時代の日本の篆刻家一覧の代表的な印譜である。